高館の東の濡れ縁から望む景色を眺めて望美は深い溜め息をついた。
眼下には雄大な流れの北上川。その対岸には淡紅色に美しくけぶる束稲山の姿が見えている。
あの様子だと三分、いや五分はもう開いてしまっただろうか。
「桜、もうすぐ満開になっちゃうよ…」
俯いてぽつりと呟いた。 過ぐる秋の日暮れにある一つの約束をした。
他愛無い小さな約束だったけれど、それは望美には大きな意味があるとてもとても大切な約束で。
あの日からずっと心に秘めてきた。
あの日あの山の麓で彼と出会ったのは偶然だった。
一人高館を抜け出して散歩をしてたら、ふらふら歩いてるうちに、思ったよりも遠くまで来過ぎてしまって…。
そろそろ引き返そうかなと思っていたところで、戦の備えを確かめに来たと言うあの人とバッタリ出会った。
きっと怒られるんだろうな〜と思ったら、やっぱり嫌味言われて。
でも、何だかんだ言いながらも、景色の詳しい解説をしてくれて、やっぱりいい人だと思った。
今まで顔を合わせることがあっても、八葉や銀など大抵誰かしらと一緒で、二人っきりで会うなんて あれが初めてのことだったから、これは滅多にないチャンスだと望美は張り切った。
だから、あの日望美は強引とも言えるくらい積極的に押しまくったのだった。
予想通り最初は断られたけど、めげずに押しまくると最終的には『俺をそこまで誘うとは…』って、驚きながらもOKしてくれて凄く嬉しかった。少し彼との距離が縮まったようなそんな気がしたから。
そこまで誘ったのは勿論彼のことが好きだったからだ。
いつから好きになったのかなんて覚えていない。気づいた時にはもう好きになってた。
決して好みのタイプではないと思うし、初めて会った時も何だか苛々しながら現れたと思ったら、あっという間に行ってしまって、第一印象もあまり良いものではなかった。
顔は整ってるけど三白眼で目付き悪いし、いつも眉間に皺寄せてて顰めっ面だし、
口を開けば嫌味と皮肉の嵐だし、全身真っ黒だし、いつも何故か鞭持ってるし。
でも、口は悪いけど面倒見が良くて、ひねくれてるように見えて真っ直ぐで、
冷たいようで誰よりも友達思いで故郷を愛していて、有能なのに不器用で、
表現が下手でわかりにくいけど、本当は愛情深くてとても優しい人。
それは上書きを繰り返すことでわかってきた部分もあるのだけれど、知ってしまったら、もう どんなに腹立つこと言われても、やっぱり腹は立つけど、それでも、何も知らなかった頃と同じ気持ちでは彼の言動を捉えることは出来なくなっていた。
何より憎まれ役になることには慣れていて、いくらでも挑発したり、上手くあしらったり出来るのに、ストレートな好意をぶつけられると戸惑いを隠せずに、一瞬素の顔を垣間見せてしまうところが望美を切なくさせる。
(何か泰衡さんって放っとけないっていうか…)
本人にこんなこと聞かれたら、眉間の皺三倍増しでまず間違いなく放っといてくれって言われるんだろうけど。
そんなことを考えて望美はくすりと笑った。
でも、出来ることならずっと傍にいたい。不器用で誤解されやすいこの人の傍にいて力になりたい。
いつしかそんなふうに思うようになっていた。
束稲山の邂逅は望美に嬉しいおまけも付けてくれた。
「ふふ、優しい笑顔だったな〜。あんな笑顔、どの運命でも見たことないよ」
今でもあの時のことを思い出すと笑みが零れる。
『そう、だな…、この桜が咲く頃に…もし、戦が終わっていたなら…』
望美のお願いを了承してくれた時の優しい笑顔、甘やかな声音。
いつもの冷たい作り笑いじゃない、恋した男が初めて見せた唯一度の心からの笑みは望美の心に深く焼きつき、今も思い出すたび彼女の胸を熱くさせる。
「あれで、もっと好きになっちゃったんだよね、泰衡さんのこと…」
あの時の約束を心の支えに次の日から望美は今まで以上に頑張った。
残っていた呪詛を全て浄化し、平泉中を駆け回って怨霊も一体残らず封印した。
いざ鎌倉軍が攻めてきて戦が始まろうとした時も、こうなったら戦うしかないんだ、と覚悟を決めて。
そんな望美に九郎は、お前の一言で踏ん切りがついた、と言い、弁慶は、僕の役目を望美さんに取られてしまいましたね、と言って、ふふっと笑った。
泰衡からの伝令が駆けつけて来たのはそんな時だった。
高館で備えるべきと言う伝令の言葉に逆らい、泰衡が陣を敷く大社の側に駆けつけると案の定彼は酷く不愉快そうに望美たちを睨んだ。
客人は高館でお待ちいただけないか、と言い、邪魔だ、とまで言われたが、だが、今更そんなことで ひるむ望美や九郎ではなかった。
伝令により銀からの報告が届き、泰衡が姿を消した後も、近付く敵の音に、行かねばなるまい、と言う九郎に、望美も、そうだね、泰衡さんに止められていても行かなきゃ、と当然のように返した。
こういう時九郎と望美はとても気が合う。
駆けつけて剣を交わした鎌倉軍の本隊はまるで手ごたえというものがなくて。
景時はもう、ここにはいないのではないか、と九郎が不審を訴えた。
搦め手に回ったのではないか、と言う弁慶の推察に、狙いは総大将、泰衡の首かな、とヒノエも応じる。
その言葉に望美は全身の血の気が引いていくのを感じた。
「泰衡さんが討ち取られたりしたら…どうしたらいいの!?」
叫ぶ望美に皆が驚いたように顔を見合わせる。
「落ち着けよ、望美。引き返すしかないだろ、あの大社へ」
将臣が言う。
「そうだな。ここで鎌倉の本隊を破ったとしても…泰衡殿や平泉の町がやられては意味がない」
九郎もそれに同意した。
大社への道の半ばで精鋭二百騎ばかりを率いて急ぐ景時の隊に何とか追いついた。
だが、それに気づいた景時は兵の半数を足止めに残すと残りを率いて走り去った。
(せっかく追いついたと思ったのに…)
望美は悔しさに唇を噛みしめ、剣を握り直した。
景時が足止め用に残した兵らを蹴散らし、大社の手前で再び景時の隊に追いついた時は、泰衡が大社の周辺に潜ませていた銀率いる弓隊が既にその半数を倒した後だった。
望美たちまで追いついたのを認め、景時は覚悟を決めたようだった。
同道していた政子だけでも逃げるよう促す。
しかし政子は逆に荼吉尼天の本性をあらわす決意を固めたようだった。
耳障りないつものくすくす笑いと共に禍々しい邪気が政子の体から放たれ、空気が不穏な唸りを上げながら、雪片を舞い上げる。
怪鳥の如き咆哮が冷気をつんざき、辺りの空気を震わせた。
己を射ろうとした雑兵の矢をはね除け、兵士の目を焼き、大社周辺に布陣していた奥州の武士たちの半数を一瞬で血祭りに上げる。
化け物だ! 阿鼻叫喚の悲鳴が雪原に響き渡った。
たちまち兵の間に動揺が走るのを見て、望美は政子と戦うしかないと判断した。
「みんな戦おう! あの人を倒さないと源氏には勝てない!」
皆が頷く。しかし、この期に及んで、武装もしていない女性とどう戦えと言うんだ…と、一人ぶつぶつ言う九郎に望美は思わず半目になった。
今、目の前でその妖力で一瞬で多数の奥州の武士を屠ったっていうのに、兵士があれだけ化け物だとパニックに陥っているのに。
(何見てたのよ、この人は…!?)
正気か!? と問う九郎にそっくり同じ台詞を投げ返してやりたくなったが、何とか自制する。
今仲間同士で争っている場合ではない。
(この異常な鈍ささえなきゃ腕は立つし、頼りになるし、とっても良い人なんだけどなぁ…)
はぁっと溜め息をつくと、埒があかない九郎はもう放置することにして、望美はさっさと荼吉尼天に斬りかかった。
だが、見えない壁のようなものにはじき返され、更なる荼吉尼天の攻撃まで受けてしまった。
そんな望美を見て『若き恋敵』と言うちょっと恥ずかしい協力技名を持つトリオが立ち上がった。
譲の援護でヒノエと敦盛がすかさず攻撃を繰り出す。
しかし、まったく歯が立たないばかりか八葉の攻撃をうとましく思った荼吉尼天は望美を時空(とき)の狭間へと連れ去った。
たった一人異界に拉致された望美に、神気を渡せ、と本性をあらわにした荼吉尼天が迫る。
望美が恐慌状態に陥り、悲鳴を上げたその時だった。
突如荼吉尼天が動きを止め、苦しみ始めた。
驚く望美に、捨て台詞を残すと荼吉尼天は彼女の前から姿を消した。
――あの社か!!の荼吉尼天の言葉から、望美は瞬間的にそれが泰衡のもたらしたものであると察した。
後に望美は正に彼女が荼吉尼天に襲われそうになったその時、泰衡がマハーカーラの力を顕わしたのだと知った。
彼女は泰衡に救われたのだった。
意図してのものではないかもしれないが、それでも望美は深く泰衡に感謝した。
はぁはぁと息を切らせながら、望美は大社の長い階(きざはし)を駆け上っていた。
酷使されている肺が、心臓が先ほどから悲鳴を上げ続けている。
だが、急く心がそれらの一切を無視し、ひたすら望美の足を早めさせた。
漸く大社の天辺に辿り着いた時には全てが片付いた後だった。
「泰衡さん!! 泰衡さん! 無事だったんですね!」
泰衡の落ち着き払った姿を認めた瞬間ホッと力が抜けてその場にへたり込みそうになる。
「無事で良かったぁ…」
にっこりと微笑みかける。勢い込んで無事を確認する望美に彼はかなり驚いていたようだった。
神子殿…と言ったきり、束の間言葉を失う。だが、それも一瞬のこと。
「無事さ、討たれるはずもない。すべてが予定通り、ここまでは……な」
すぐに冷徹な将の顔を取り戻した泰衡は、足下に転がる政子に冷たい一瞥をくれるとその身柄の拘束を傍らにいた武士に命じ、さっさと望美たちに背を向けた。
「泰衡? どこへ…」
九郎が問う。
「あとはただの鎌倉の軍勢。人の世の戦で、勝ちに行くまでだ」
さらりと告げられた勝利宣言。
あまりにもあっさりと告げられたその言葉が意味を成して脳に到達するまで数瞬を要し、その間に泰衡の姿は消えていた。
「九郎さん、私たちも行こう!」
「当然だ!」
すぐに九郎が応じる。
望美が大社の端に駆け寄り、下を見下ろすと、銀を従えて、戦場へ馬を駆る漆黒の姿が見えた。
己が発したその言葉通り、奥州十七万騎を率いた泰衡は、緻密で的確な采配を揮い、奥州を鮮やかな勝利に導いた。
その有言実行を絵に描いたような姿は悔しいけれど、日頃の憎まれ口を帳消しにしてあげてもよいぐらい格好良かった。
その時の雪もすっかり溶け、今は花咲き乱れる爛漫の春である。
あれから泰衡はすっかり忙しくなってしまったようで、もうずっと会っていない。
以前のように高館に九郎を訪ねて来ることも、平泉の町でバッタリ出くわすこともなくなってしまった。
束稲山に行けばまた偶然会えるだろうか…?
一度だけそんなことを考えたが、望美はすぐにそれを打ち消した。
あの時あの人は戦の備えを確かめに来たと言っていたのだから、戦の終わった今ではもうあそこに用はないはずだし、それに望美の心情として一人であの場所を訪れる気にはなれなかったのだ。
次にあの場を訪なう時は彼と二人で、とそう決めていたから。
望美も立会いを許された先日結ばれた和議の場で久しぶりに泰衡の姿を見かけた。
だが、和議に立ち会う為に奥羽各地から訪れた郡司や豪族たちに囲まれて忙しなくしていた泰衡とは、その姿を離れた所から見ることが出来ただけで、近しく言葉を交わす機会はなかった。
和議からもう数日が経過していたが、相変わらず泰衡からの連絡はない。
「約束、もう忘れちゃったのかな…」
(指きりもしたのに…)
凝っと自分の小指を見下ろす。
思い出すと、あの時泰衡と絡めた小指が俄かに熱を帯びたような気がして鼓動が早まる。
彼の手は大きいけれど、男の人なのに指が長くてとても綺麗だった。
和議の前に、朔に教わりながら手紙を書いて、一度だけ送った。
本当は会いたかったけれど、和議までは酷く忙しいと銀から聞いていたので、遠慮して手紙だけにしたのだ。
でも、現在は既に和議は成っている。
(もう、和議も終わったことだし、多分ちょっとぐらいなら時間あるよね?
行ってみよう。それでもし、忘れてたら、針千本…は無理でも、文句の一つも言ってやるんだから)
そう決めると沈んでいた心が少し軽くなったような気がした。
望美は出かける支度をするべく自室に向かって歩き出した。
ほんとあの時の九郎さんには呆然でしたよ(笑)
今味方の半数を瞬殺した化け物に、武装してない女性と戦うのか…ってあーた…;(苦笑)
でも、それでこそ九郎って気がしないでもない(笑)面白過ぎるよ、九郎さん^^