柳ノ御所の門が見えてきた所で望美はいったん立ち止まった。
勢い込んで出てきたものの。
「さて、これからどうしよう…?」
伽羅御所には何回か来たことがあるけれど、柳ノ御所に来るのは望美は初めてである。
先の戦では結果的になし崩しに無理矢理参戦したものの、当初は泰衡によりすっかり客人扱いで蚊帳の外に置かれていた望美たちは、戦前に、ここ柳ノ御所で行われていた合議にも参加させてもらえていなかった。
九郎や弁慶は昔から来たことがあるようだが、望美一人ではこの築地塀がかなり先の方まで続いている広大な建物の勝手がわからない。
伽羅御所も広かったけど、こちらの柳ノ御所もかなりのものだから案内なしでは迷いそうだし。
いきなり泰衡を呼んだりしたら、本人の顔見る前に『仕事中だ』の伝言一つで追い返されかねないような気もする。
だから、ここはひとまず。
(銀を呼んで便宜を図ってもらうのがベストよね…)
そう判断すると望美は門衛に近付いた。
「こんにちは。あの…すみませんが、銀を呼んでもらえますか?」
にこりと微笑みながら声をかける。だが、その門衛の男はまたか、とうんざりしたように溜め息を吐いた。
(また…?)
「最近あんたみたいの多いんだよね。銀殿はいちいちお会いになられないよ。
文や贈り物なら渡しといてやるから、そこの箱の中に入れてさっさと帰んな」
言われて男の傍らの箱に視線をやれば職業柄、学も有り、高価な料紙なども手に入る白拍子あたりからだろうか…の恋文と思しき綺麗な紙を使った文や贈り物らしき大小様々な包みが山盛りになっている。
先年の呪詛解除の折り、川湊の小物を商う店で銀のその凄まじいモテっぷりの片鱗は目にしていたが、まさかこれほどとは…。
「ええっ!? ち、違います。私はそんなんじゃなくて…」
「あー、はいはい。皆、そう言うんだよね。わかったから、はい帰った帰った」
取り付く島もない。
(どうしよう…)
「――どうしたんだ? 何を揉めている?」
望美が困って立ち尽くしていると反対側に立っていた武士がこちらにやってきて男に問うた。
「ああ、いつものだよ」
「ん?」
望美に目を向けた武士の顔色が変わった。
「これは神子様!」
そして最初に望美が声をかけた方の男を叱りつけた。
「馬鹿者! この御方は白龍の神子様にあらせられるぞ。
俺は先の戦の時大社そばの陣に配属されたからお顔を存知あげておる」
「ええ!?」
最初の男の顔色も変わった。
「これはとんだご無礼を…。只今すぐに銀殿を呼んで参りますので」
ぺこぺこと何度も頭を下げると男は門内へと走り去った。
程なくして銀が現れた。
望美の姿を認めるとそれはそれは嬉しそうな笑顔になる。
「神子様。ご連絡いただけましたら、高館までお迎えに上がりましたのに」
「急に思いついて、来ちゃったから。それにもう、怨霊もいないから大丈夫だよ」
「それも、全ては怨霊を封印してくださった神子様のおかげにございます」
「みんなが一緒に戦ってくれたから封印出来たんで、私だけの力じゃないよ。
それに銀も、何度も手伝ってくれたでしょう?」
微笑む望美を眩しそうに銀が見つめる。
「それで今日はどのようなご用件でございましょう?」
「うん。それなんだけどね…」
ちょっと泰衡さんに会いたいんだけど…、と望美がおずおずと切り出すと銀は心得たふうに穏やかに微笑んで頷いた。
門をくぐると平泉政庁は予想よりも広大だった。
中央に一際大きな正殿、両脇には脇殿。周囲に配されたやや小ぶりな建物は焼き物の工房や儀式の装束を調製する縫殿、陸奥各地から納められた租税を収蔵しておく蔵などだと銀が説明してくれた。
その中央に位置する建物群に案内されながら、望美は銀に問うた。
「あ、あの私、このまますぐ泰衡さんのお部屋に行っちゃっても大丈夫なの?」
「と仰いますと?」
銀が首を傾げる。
「お仕事中だろうし…。後、ほら、あの…先触れだっけ?とかさ…」
「神子様なら大丈夫にございますよ。それに神子様がご来訪なさることで、泰衡様が少しでも、仕事をお休みになられるのならば私には一石二鳥にございます。
私がお諌めしてもなかなか聞き入れてはいただけませんので」
「そ、そういうものなの?」
「もし、お叱りを受けるようでございましたら、私が責任を取りますので、神子様はどうぞ、ご安心なさってくださいませ」
にっこりと笑んで銀は請合った。
やがて先導していた銀が一つの部屋の前で立ち止まった。
「失礼致します。これは…」
低く声をかけ、部屋へ入りかけた銀は望美を振り返り、困ったように微笑した。
「どうしたの、銀?」
不思議に思い、銀の横から部屋を覗き見た望美も、小さく微笑んだ。一目で銀の微笑の意味を理解する。
何故なら、部屋の主は文机の横の柱にもたれ掛かるようにして、安らかな寝息を立てて、眠っていたのだから。
「少々お待ちくださいませ。只今お起こしして参ります」
そう言って行きかけた銀を望美は潜めた声で慌てて止めた。
「いいよ。私、泰衡さんの目が覚めるまで待ってるから」
ですが…と言いかかけるが、望美が銀と視線を合わせて、ねっ、と囁くと、彼は一拍の間の後頷いた。
「よっぽど疲れてるんだね…」
仕事中に簡単に眠ったりするような人じゃないことは知っている。
「ええ。昨夜も伽羅御所にはお戻りにならずに、此方で夜通し過ごされたようでございます」
銀の顔に微苦笑が浮かぶ。
「和議が終わったのに、まだそんなに忙しいの?」
「そう…ですね。和議までは和議に関わる一切を最優先に処理されてきましたから、その間の通常の執務にどうしても多少滞りが生じたようでございまして…。
今はその遅れを取り戻すべく懸命に頑張っておられるようでございます」
「そう…。ね、銀、春とはいえ、眠ってるとこのままじゃ体冷えちゃいそうだから、薄衣か何か持ってきてくれないかな?」
「はい。只今すぐに…」
一礼して銀が退出すると望美は泰衡の傍にそっと歩みより、膝をついた。
「ふふ、よく眠ってる…」
「神子様、お持ちした物はこちらに置いておきますので」
すぐに薄衣を手に戻ってきた銀がそれを母屋と庇の間(ま)の境の長押(なげし)の上に置き、潜めた声をかける。
それに頷いて見せると、銀は彼女に微笑みかけると一礼して立ち去った。
銀が去ると再び泰衡の方を望美は振り返った。初めて見る彼の寝顔をこの機会にじっくり観察しておきたかった。
(さすがに寝てる時までは眉間に皺ないなぁ…)
声を忍ばせてくすくすと笑う。
(やっぱりこうして見るとこの人、顔立ちはいいんだよね)
北国の人間特有のきめ細かい色白な肌も、切れの長い瞳も、鼻筋の通った形の良い鼻梁も、引き締まった口許も、全てが繊細で、品がある。
ふと前に銀から、泰衡の母親は京の藤原北家の流れを汲む名家の姫だと聞いたことを思い出した。
だから、この繊細な顔立ちはその血筋から来ているものなのかもしれないなと思った。
基本は申し分ないんだけど、ただほんの少〜し目付きが悪いのと標準装備の眉間の皺と常に口角が下がってるへの字の唇との豊富過ぎるオプションと本人が作り出す険しい表情のコラボで、起きてる時は少々悪人面に見えるだけで…。
少々なんて、と、ふふっと望美は笑った。
こんなふうに思える時点で自分は既にこの人に相当いかれているのかもしれない。
だが、それらのオプションが払拭された今の眠る泰衡は別人のように穏やかな顔に望美の瞳には映っている。
(あ、隈発見! それに少し痩せた…かな…? …やっぱり相当忙しいんだろうな…)
先ほどの銀の言葉を思い出し、ズキリと胸が痛んだ。
(こんなに多忙なんじゃ、あんなちっぽけな約束なんて忘れてても仕方ないのかもしれない…)
悲しいけど本気でそう思う。 この人の肩には奥州の将来がかかっているのに、なのにあんな小さな約束の為に わざわざ我儘を言いに来た自分が何だか酷く子供っぽくて情けないように思われた。
溜め息を吐きながら何気なく横を見ると文机の上に広げたままになっている書類が目に入った。
何とか漢文ということだけはわかるが、望美にわかるのはそれだけで、何が書いてあるのかまではさっぱりだ。
こんな文字一つ読めなくて、力になりたい、だなんて思い上がりもいいとこだ。
この人がどれだけ忙しくしていたって、自分は政(まつりごと)のことなんて何一つわからない。
(――私は戦の時しか役に立たない)
その戦も終わり、無事和議も結ばれた。
呪詛も怨霊も全て祓われ、龍脈が力を取り戻した今の平泉に果たして自分が残ってる意味はあるのだろうか。
(――帰ろう)
唐突に浮かんだその言葉が、すとんと望美の胸に落ちた。
この地で自分が果たすべき役割はもう終わったのだ。
そうと決まればここからも、このまま立ち去った方がいい。
立ち上がった望美は先ほど銀が持ってきてくれた薄衣がそのままだったことを思い出した。
(これだけでも…)
薄衣を取り、泰衡の元に戻ると膝をつき、そっと彼の肩にかける。
(さようなら、泰衡さん…)
その時軽く身じろぎしたかと思うと不意に彼の瞳が開いた。
至近距離で覗き込むようにしていた望美とまともに視線がぶつかる。
「ん…みこ…ど…」
望美は思わず赤面して飛び退いた。
「……神子殿!?」
泰衡も一気に目が覚めたようで、がばりと跳ね起きる。
「これは失礼。起こしてくだされば良かったのに、まったく神子殿もお人が悪い」
決まり悪そうに目を逸らして、むすっと言う泰衡に望美はくすりと笑った。
「よくおやすみのようでしたから」
「して、こんな所までご足労いただくとは、今日は何の御用か?」
「あ…」
今の遣り取りで一瞬忘れていた決意を思い出す。
「…私、自分の世界へ帰ります。今日はそのご挨拶に…」
「そう、だな…」
一瞬漆黒の瞳が揺れたように思えたのは、多分自分の願望が見せた都合の良い錯覚だろう。
だって、その後に続く彼の言葉は憎らしいほど落ち着いていて、よどみのないものだったから。
そうだな、と泰衡は噛みしめるように、もう一度繰り返した。
「それがよろしかろう。この平泉の為、今まで御尽力くだされた白龍の神子殿に感謝する」
彼の言葉にいつもの皮肉めいた調子はなかった。寧ろ真摯と言ってもいいかもしれない。
だが、その常と変わらぬ落ち着き払った態度が、何の感情も窺えぬ冷静な眼差しが望美の胸をえぐった。
「…がう」
「…?」
声が擦れる。必死に力を入れ、望美は喉を開いた。
「違う、私が頑張ったのは平泉の為だけじゃない!」
「神子…殿?」
泰衡が怪訝な顔をしてこっちを見ているのがわかったが、一度溢れ出した言葉はもう止めることは出来なかった。
目の前の彼の顔が滲む。鼻の奥がツンとして、瞳に熱いものがこみ上げてくる。
白いスカートをギュッと握りしめた膝の上の拳が震えた。
「私が頑張ったのは…、私は……っ!」
駄目だ、これ以上ここにいたらみっともなく泣き崩れてしまう。きっと思い切り泣き喚いてこの人を困らせてしまう。
「ごめんなさい、私、もう帰ります!」
勢い良く立ち上がると望美はそのまま身を翻して駆け出した。
駆けていく少女の背を泰衡は唖然として見ていた。
その大きな瞳に涙が光っていたのは決して彼の見間違いではないだろう。
「…俺が一体何をした……?」
呆然と呟くと泰衡は乱暴に前髪を掻きあげ、額に手を当てた。
感謝の言葉に偽りはなかった。事実彼はこの平泉の平和の為に貢献してくれた少女に心から感謝していたのだから。
口調だって嫌味にならぬよういつになく気遣ったつもりだ。
わけもなく波立つ心を無理に沈めて出来るだけ穏やかな物言いをしたつもりでいたのである。
第一これまで散々嘲笑や皮肉を浴びせかけても、時に気丈に言い返してきたりすることはあっても、大抵は気にもとめぬふうにニコニコと煩いくらいに次々話しかけてきていたというのに…。
それが何故何の皮肉や嫌味もなしに、まともに礼を言ったら、泣かれねばならんのだ…。
酷い言葉をかけたと言うなら以前の方がよほど――そう、あの束稲山の時だって――
「…!……」
取り敢えず涙の理由(わけ)を質さねばなるまいと神子の後を追おうと、足早に簀子縁を歩いていた泰衡の足がぴたりと止まった。
今更追いかけたとて何になるだろう。自分とあの少女は深い間柄でも何でもない。
泰衡はフッと自嘲の笑みに、顔を歪めた。
そう、つまらぬ約束一つ覚えていてもらえぬほどの――
藤原北家とは北家・南家・京家・式家とある藤原四家の内のあの摂関期に栄華を極めた道長さんの家系です。
2話にもちらっと出てきましたが、泰衡さんの母方の家系は、曽祖父の大蔵卿藤原忠隆が鳥羽院の近臣、祖父の基成は鎮守府将軍で陸奥守。その妹2人は関白の正室で、その子達も関白や権大納言になり、特に関白基通は後白河院の寵臣で、代々帝や院の側近を輩出してきた名門公家だそうでございます^^