日差しが一日一日長くなっていく。雪ももう、すっかりと溶けて。
耳元を掠める風はまだ冷たいけれど、空気には穏やかな春の匂いが混じり始めている。
間もなく奥州に遅い春がやってくる。
だが、そんな爽やかな早春の景色とは裏腹に斜面を下る男は、ひゅるりと枯れ葉が舞う秋の日暮れのような憂いに満ちた表情を浮かべていた。
(一体泰衡様はどういうおつもりなのでございましょう?)
銀はふーっと長い吐息を洩らした。ここは高館からの戻り道である。
彼が神子からの命で、彼の主の元へ文を届けたのは今から五日ばかり前のことだった。
だが、その返しの文はいまだ届けられる様子はなく…。
口にこそ出さぬが、神子が返事を待っていることは明らかで、毎朝彼が高館を訪ねるとぱっと顔を輝かせるが、銀が手ぶらなのを認めると一瞬酷く沈んだ表情を浮かべるのだった。
すぐに彼を気遣うような笑顔になるのがまた痛々しくも健気で。
その雨に打たれてしおれた花のような可憐な風情は銀の繊細な胸を締めつけた。何より。
(毎日神子様に顔見てがっかりされる私の身にもなって欲しいものです)
銀自身に落胆しているわけではないとはいえ女人に――しかも崇拝している神子様に度々そんな顔をされるのは辛い。
後朝(きぬぎぬ)の文のように何が何でも早くなければいけないと言うわけでもないだろうが、それにしてもいくら多忙とはいえ五日とは些か礼を失するというには充分な期間である。
彼が泰衡に拾われてから、そう長い年月を経ているわけではない。
だが、拾われてすぐに銀と言うこの名をいただき、側仕えを任じられて以来、彼のしもべとして郎党の誰よりも間近く仕え、神子が来るまでは一日の大半を彼の側で過ごしてきた。
長く接していれば自ずから見えてくるものもある。銀は、無愛想で自分のことをあまり語りたがらない己が主が見た目ほど恐ろしくも、 また本人が自身でそう思い込もうとしているほど、非情な男でもないことを知っていた。
(それに、だいいち泰衡様は……)
銀はふわりと優しい微笑を浮かべた。
差し出口とお叱りを受けるかもしれないが、今日こそこの件に関して主の真意を質してみようと彼は決意した。
「戻ったか」
「はい」
「―――高館に変わりないか?」
振り返らずに主が問うた。
「はい、それが神子様が…」
仕事を続けたまま彼の報告に耳を傾けていた泰衡の手がぴたりと停まった。
「神子殿の身に何か?」
「いえ、神子様の御身には何事もございません。ただ…」
「ただ?」
「あのう、泰衡様…、神子様からの御文が届いてから今日で五日目にございますね」
「――それが?」
高々と泰衡の形の良い眉が跳ね上がり、彼は苛立たしげに銀を見つめた。
「口にこそ出されませぬが、神子様が泰衡様からの御返しの御文を心待ちになさっていることは明白にございます。
毎日私が伺うたびに、私が何も持っていないのを認めると酷く悲しげな表情に…。
あれでは神子様がお可哀想にございます。泰衡様、なにゆえ神子様にお返事をお遣わしにならないのでございますか?」
銀は思い切って切り出すと切々と訴えた。すると主は皮肉に口許を歪めた。
「では俺も訊こうか。仮に返事を差し上げたとして、あの神子殿は読めるのか?」
「そ、それは…」
神子様の御心ばかりに気が行き、その点を失念していた銀は言葉に詰まった。
確か先日の文を書かれた時も、黒龍の神子に手ほどきを受けながらだと聞いている。
「神子様は異世界より参られた御方。おそらくこちらの文字にはあまり堪能ではないかと…」
「…だろうな」
「な、なれど、側の者が読んでお聞かせして差し上げればよいわけで…、八葉の方とか…」
ピクリと泰衡の顔が強張った。
「いえ、朔様ですとか…」
「ほう?」
主がきつく眉根を寄せる。
「あ、いえ何でしたら私でも…」
彼が言葉を連ねる毎に段々と泰衡の顔が険しくなっていき、逆に銀の声はどんどん小さくなっていく。
「冗談じゃない。俺は八葉にも梶原の娘にも添削される趣味はない。――勿論お前にもな」
低く吐き捨てる声を聞き、銀はがっくりと肩を落とした。
(そういう訳にございましたか…)
「とはいえこのままお捨て置きになられては、あまりに神子様が哀れにございます」
神子の愛らしくも悲しげな顔が浮かび、銀は尚も食い下がってみることにする。
「何か…そう…ですね、そう、花などお遣わしになってみては如何でしょうか?」
「ふむ、花……か」
腕を組み、泰衡が呟く。
「ええ、花を贈られて喜ばぬ女人はおりませぬゆえ」
にっこりと笑みを浮かべて。
どうやら主が心を動かしかけていると見て銀はここぞとばかりに押した。
「そう、だな。ならば伽羅御所の南庭に丁度今が盛りの…。ん…、何を笑っている?」
「いえ。『野の花』でなくても、よろしいのかなと?」
上手く主を動かすことに成功して気を良くし、つい口を滑らせた銀を泰衡は見る者を真冬に逆戻りさせるような眼差しで睨(ね)めつけた。
「差し出たことを申し上げました。真に申し訳ございません」
慌てて低頭したのは抑え切れぬ笑みを隠す為。
「花の種類なぞ何でもいい。お前に任せる」
「はっ」
そんなことを言いつつも、やれ色がどうの枝ぶりがどうのと結局あれこれ指示してくる主が銀には何だかとても微笑ましく思われた。
重衡発動してないうちの銀は、神子様のことも、泰衡様のことも同じくらい大事に思っています。