束稲山にて2
「神子殿からの…文(ふみ)だと…」

平泉政庁柳ノ御所の彼の執務室で、急ぎの書状に返書を認(したた)めていた泰衡は、筆を手にしたまま振り返った。

「はい、神子様からの御文にございます」

 にっこりと笑って彼の郎党銀がうやうやしく差し出した物は、薄様を淡紫(うすむらさき)と萌黄の藤の色目に重ねた紛れもない文だった。

「手があいたら読む。その辺にでも置いておけ」

「はっ。それではこちらに」

 泰衡が素っ気無く言い捨てると、銀がくすりと小さく笑みを零した。彼の眉間の皺が深くなる。

「――何だ?」

「いえ、何でもございません」

 しれっとした顔で泰衡の氷のような視線を受け流すと、銀は文机の隅にそっと文を置き、かしこまった。

「私はこの後、御館のお召しを受けております。本日はこれにて失礼させて頂いても、よろしいでしょうか?」

「ああ、下がれ」

 一礼して銀が退出する。その足音が次第に遠くなり、漸く消えた頃、泰衡はおもむろに文を手に取った。

「神子殿が俺にこれをな…」

 ふっと泰衡の目許が和む。

 鎌倉との戦後、戦の事後処理に、和議の備えに、泰衡は文字通り目の回るような忙しい日々を送っていた。
 和議は何としても取り結ばねばならない。
 だが、彼はあの女狐の夫である食わせ者の古狐頼朝を全く信用してはいなかった。
 荼吉尼天の加護を失い、御台所の身柄を拘束され、浮き足立ち敗走したものの鎌倉はいまだ充分な兵力を擁している。
 陸奥は源氏に取って、頼義・義家の代から続く宿意の地である。
 まだ兵力が残る以上あの執念深き源氏の棟梁頼朝がそう簡単に諦めるとも思えない。
 何の策も無く和議に赴けばどんな謀略を仕掛けてくるか知れたものではなかった。
 事前に、和議の場で鎌倉がおかしな行動に出れぬよう動きを封じる手を打つ必要があったが、それには熊野と朝廷を関わらせてしまうのが最も手っ取り早く効果的といえた。

 熊野と奥州には昔から浅からぬ縁(えにし)がある。
 前(さきの)熊野別当藤原坦快は彼の後見人であったし、その子現別当湛増は都合の良いことに白龍の神子の八葉となり、昨年より平泉入りを果たしていた。

 また泰衡のすぐ下の弟忠衡とて熊野の生まれである。
 父母の熊野詣での折り、滝尻で産気づいた母はそこで忠衡を産み落とした。
 父秀衡はその地に今では『秀衡堂』とも呼ばれている七堂伽藍を建立し、経や藤原家代々の宝刀である黒漆の小太刀を奉納した。
 そこは滝尻王子(神祠)と呼ばれ、熊野九十九王子の中でも特に格式が高いとされる五体王子の一つとなっている。

 またその滝尻王子から本宮方向へ数えて七つ目の野中の継桜(つぎざくら)王子も、その地で秀衡が願をかけた桜を継ぎ木したことがその名の由来となっている。
 その野中の桜と、那智大社で彼が奥州より苗木を持参して植樹した山桜は共に『秀衡桜』と呼ばれ、今も熊野の民に親しまれている。

 源平の合戦では常に中立の立場を崩すことなくきた熊野だが、此度(こたび)は戦ではなく和議である。
 動かす成算は充分彼にはあった。

 それは朝廷のこととて同じである。
 元より武家の台頭に脅威を感じていた内裏は、平家を滅ぼし、坂東で着々と地歩を固めつつある源氏が更に奥州をも平らげ、力を一身に集めることを警戒していた。
 鎌倉の圧力に屈し、九郎追討の院宣こそくだしたものの後白河法皇は頼朝の更なる奥州征伐の宣旨への要請はのらりくらりと言を左右にして躱し続けてきた。
 源平合戦の折り、平宗盛が並み居る公卿どもの反対を押し切って、父秀衡に陸奥守(むつのかみ)の官位を授けたこととて全ては奥州に鎌倉への背後からの牽制役を期待してのもの。

 また奥州から納められる黄金や駿馬や上質の漆は相も変わらず都の公卿たちには魅力的な物となっている。
 彼の外祖父藤原基成の甥、つまりは泰衡の母のいとこである基通は後白河法皇の寵臣で、異例の早さで出世を遂げ、今をときめく関白の地位にいる。
 その基通を通じて、泰衡は後白河法皇への働きかけを続けていた。
 権謀術数に長けた都の公卿、中でも、あの頼朝に大天狗と言わしめた後白河法皇との腹の探り合いは気骨の折れる何かと神経をすり減らす作業だったが、それも、もう後僅かのことだろう。
 そう思い、泰衡はふーっと息を吐き出した。
 かさりと手にした文を開く。
 もう、随分と居館伽羅御所と猫間が淵を挟んで隣接するこの柳ノ御所を往復するだけの毎日で、久しく彼女の顔も見ていない。

(お健やかにお過ごしだろうか…?)

 少女の花のような笑顔が浮かぶ。
 勿論彼女の身に何かあれば銀が報告せぬわけがないし、呪詛も怨霊も無い、和議が成るまでは完全とは言えぬとはいえ、一応の平穏を取り戻した今の平泉で、あの元気の塊のような少女を損なうようなものがあるとも思えぬし、更に言えば、その呪詛や怨霊の解消とて、日々懸命に浄化や封印に励んでいた彼女のおかげではあるのだが…。

 そこまで考えたところで泰衡はフッと笑った。
  一度だけ封印をする彼女を見かけたことを思い出したのだった。
 まだ鮮やかな紅葉の錦が平泉を彩る秋の日のことだった。
 通りかかったのはほんの偶然だった。
 八葉を従え、長い髪を靡かせながら、怨霊相手に剣を振るう少女を見かけ、名高き白龍の神子の剣技を見定めてやろうと彼は馬を止めた。
 怨霊相手に臆することなく斬り込むその真っ直ぐな太刀筋は九郎のそれと似ていると、そう思った。
 勿論二人が兄妹弟子なのは聞いていたが、同じ師についたとてかほどなまでに似るものではない。
 剣にはそれを振るう者の気質が現れる。日頃の言動を見ていれば察せられぬでもなかったが、やはり神子と九郎の気性は似通ったものであったのだと改めて思い、泰衡は口許に笑みを刻んだ。
 だが、神子の剣はそれでいて九郎にはない舞うような軽やかさと鮮やかな優美さもあった。

『平時なれば、戦場でのお姿とは異なるところもございますが…』

 初めて白龍の神子に付いて報告させた時の銀の台詞が蘇る。
 異なるところもある、どころではないと泰衡は苦笑した。何よりも纏う気迫と目が違う。
 あどけないと言ってよい普段の姿からは想像もつかぬほどに、敵を見据える眼光の鋭さは紛れもなく女武者のもの。
 源氏の神子、姫将軍、戦女神…今まで耳にした様々な風評を思い出す。

「フン、風評はあながち偽りではなかったと言うわけか…。あの目、悪くないな…」

 泰衡がそう呟いたその時だった。
 まばゆい光が辺りに満ち溢れ、圧倒的な陽の気の存在を彼の呪術者としての鋭い感覚が捉えていた。
 慌てて目を転じれば、光の渦の只中に彼女はいた。
 両手を胸の前で組み、瞳は軽く閉じられて、ここまで声は聞こえぬが、何事か一心に唱えているのは唇の動きで分かった。
 光が一層強くなる。衣が翻り、少女の長い髪が舞い上がる。
 気高さすら感じさせるその表情に泰衡は目を瞠った。

 最後に一際強い輝きを放つと光は消滅した。
 後には怨霊の姿はなく、ただ清浄な神気の名残りばかりが漂っていた。
 鮮やかな手並みであった。

(これが白龍の神子の封印の力……)

 地に刺していた剣を取り、収めると、乱れた髪を手櫛で整えながら、神子が仲間たちを振り返りにっこりと笑った。
 神の愛し賜うた清浄な斎姫(いつきひめ)が現世の娘へと立ち返る。
 泰衡は知らずつめていた息を吐き出した。
 かつて彼が『雑草』と評したごく普通の少女らしいさまに、ふと安堵するものを感じたのは何故だろう。

(…………)

 神子たちが移動し始めたのを察し、彼は馬首を返すと気づかれる前に姿を消した。















 文を開き見て、泰衡は思わず苦笑した。

「フッ、酷い字だ…」

 だが、その言葉とは裏腹に彼の表情は柔らかい。
 つたない女文字でたどたどしく綴られたその文には、少女の人柄そのままの真っ直ぐで、温かな言の葉が並んでいた。
 泰衡の胸を温かいものが満たしていく。疲労が少しやわらいだようなそんな気がした。
 数度読み返すと、泰衡はそれを蒔絵の文筥(ふばこ)の底にそっと仕舞った。





update : 06.6.9


銀は自分がいたら、泰衡は絶対文読まないのわかってて気を利かせてます(笑)

熊野の秀衡のエピソードはこの話では略しましたが、「生まれたばかりの赤子を残して、それを狼が守ってて無事だった」とかの部分は最早伝説の域なんですが(笑)、七堂伽藍建立のあたりは史実です。
『秀衡桜』は現在も熊野に健在で、毎年観光客の目を楽しませているそうです(野中の方は三代目ですが)

それにしても息子が『泰衡ヶ蓮』で、父親が『秀衡桜』ですか?…この花好き親子めv(笑)





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