久しぶりに先輩の好きな蜂蜜プリンでも作ろうと厨(くりや)に向かって歩いていた譲は渡殿で来客の姿を認め、足を止めた。
「こんにちは、泰衡さん。今日は九郎さんにご用ですか?」
鎌倉に追われる九郎達一行を受け入れてくれ、何かと世話になっているこの平泉の総領である。
譲とて言わば食客のような身。挨拶ぐらいしておくにこしたことはない。
譲が礼儀正しく声をかけると漆黒の衣を纏った男は振り返り、慇懃な笑みを浮かべた。
「ああ、確か……有川殿だったな。何でも神子殿の幼馴染で、共に異なる世界より参られたとか…」
「はい、そうですが、それが何か…」
軽く挨拶だけして通り抜けようと考えていた譲は思ってもみなかった話の展開に首を傾げた。
「丁度いい。突然つかぬことを伺うが―――」
「は…?」
「兄さん! 兄さん!」
怨霊退治のない穏やかな午後の一時(ひととき)を昼寝と決め込んでいた将臣は突然足音も荒く駆け込んできた弟に眉を顰(ひそ)めた。
「なんだ、なんだぁ?どうした慌てて…。まさか望美の身に何かあったんじゃねぇだろうな?」
望美は今日は火属性の怨霊を封印するとかで、朔と敦盛の水属性コンビの2人と更にその敦盛と金剛夜叉明王呪というやはり水属性の術を繰り出すことが出来る玄武のリズヴァーンと共に出かけていた。
「違うよ! 先輩のことじゃない。――兄さん、一体あの人に何言ったんだよ!?」
それを聞いて些かホッとしながら、のそりと身を起こして将臣は譲と向き合った。
「あのな、譲。話がさっぱり見えねぇんだけど…」
バリバリと頭を掻く。
「大体あの人って誰だよ?」
「だから泰衡さんだよ。あんな後がおっかなそうな人からかうのよせよ!」
「ハァ? 藤原泰衡ぁ? 俺はあいつと口きいたことなんか殆どねぇぞ」
「とぼけるなよ! あの人に『デート』なんて言葉教えるの兄さんぐらいしかいないだろ。
しかも意味は敢えてぼかして…」
譲の言葉に将臣はぽかんと口を開けた。
似合わない。とてつもなく似合わない。知盛の『サンキュ』以上に似合わない。
あの常時黒ずくめで、眉間の立て皺が標準装備の男の口から出てくるのに、これほど似合わない言葉もないだろうと彼には思えるのだが…。
だが、そんな将臣の気持ちも知らず、譲は更にまくしたてる。
「それに、平知盛に『ラッキー』って教えたのも兄さんだろ。
初めて聞いた時は腰抜かすほど驚いたけど、でも、後で兄さんが還内府だったと知って、いかにも兄さんが面白がってやりそうなことだと納得したよ」
溜め息を吐いて彼を睨む弟に、将臣の方こそ溜め息を吐きたい気分だった。
「そりゃ知盛や経正に教えたのは俺だけどな…」
敦盛さんの兄さんにまで、と譲が呆れたように呟いたのは聞かなかったことにして。
「でも、泰衡のは俺じゃないぜ」
将臣はキッパリと断言した。
「だって…それじゃ一体誰が…」
「そりゃ俺じゃなくて、お前でもなきゃ、後は望美ぐらいしかいねぇだろうな」
譲の顔色が変わった。
「な、なな何で泰衡さんと先輩がデートの話なんかするんだよーーーっ!!!?」
「俺が知るかよ!」
絶叫する譲に将臣も軽く怒鳴り返す。
「で、お前、結局泰衡に『デート』の意味は説明してやったのか?」
蒼白な顔のまま譲がコクリと頷く。
好奇心を抑えきれず将臣は人の悪いニヤニヤ笑いを浮かべて更に問う。
「泰衡の反応はよ?」
「いや、特に何も…。そのまますぐ帰っちゃったし…。
…あれ、でも確かあの人九郎さんに用事があったはずじゃ…??」
譲は首を捻っていたが、将臣は眉間の皺を一層深くして帰路に着いたであろう男の姿を思い浮かべ、堪えきれずククク…と喉を鳴らした。
そして、無理なのを分かっていて弟に意地悪な提案を一つ。
「おい、譲。そんなに気になるならよ、お前、直接望美に訊いてみたらどうだ?」
「訊けるかよ!」
間髪を入れずに返ってきた答えに腹を抱えて笑う。
「訊けないよ、そんなこと…でも気になる…でも先輩になんて訊けっこない…。あああああ」
ぐるぐると思考の迷路にハマッた譲は髪を掻き毟りながら、がっくりと床に膝をついた。
もう、側にいる将臣のことすら認識しているのかどうか。
「大体どうして泰衡さんと…てかいつの間に先輩は泰衡と……」
これじゃまるで拷問だ、とか何とかブツブツ呟きながら、何を想像しているのやら、 一人赤くなったり、青くなったりしている譲を、我が弟ながらほんっとこいつって面白い奴だよなあと思いながら、将臣は見下ろしていた。
その時突然譲がふらりと立ち上がった。
顔色は再び蒼白で、こめかみには青く毛細血管が浮かび、握り締めた拳がぶるぶると震えている。
「おのれ泰衡ぁ!!!」
妄想の限界に達したらしい譲の絶叫が高館に響き渡った。
「―――どうかなさいましたか、泰衡様?」
柳ノ御所の一室。執務に励んでいた主が突然ゾクリと身を震わせたのに気づき、部屋の隅に控えていた銀は声をかけた。
今日は神子様方は火属性の怨霊を封印するとかで、金属性の彼の手助けは必要ないとの連絡を受けていた銀は本日は柳ノ御所に詰めていた。
「いや、ちょっと悪寒が…」
返ってきた言葉に愁眉を寄せる。 朝から根を詰めてかかっていた仕事を一段落させ、気晴らしにと彼の供を断り、主が一人で遠乗りに出かけたのは昼を一刻ばかり回った頃のこと。
それから一刻もせぬうちに戻ってきてからというもの、どうも様子がおかしいと丁度訝しんでいたところだった。
いつになく執務に身が入らぬご様子で、いつもなら書類の山を淀みなく捌いていく手も先程から止まりがち。
おまけに溜め息ばかりつかれている。
(やはりお疲れなのでしょうか…?)
「お風邪でも、召されたのでしょうか? すぐに薬湯の手配を致しましょう」
「いや、それには及ばん」
立ち上がりかけた銀を泰衡は手を振って止めた。
ですが…と言いかけるが、見たところ特に顔色が悪いわけでもないようなので、取り敢えず引き下がることとする。
そうして、彼はもう一つの不安を切り出した。
「まさか、鎌倉方の新たな呪詛という可能性は…?」
銀の問いかけに泰衡は厳しい顔をして腕を組んだ。
「断言は出来んが、おそらくそれはないだろう。
今まで発見された呪詛はどれも、この平泉の龍脈を穢し、土地の力を弱体化させるもの。
それを急に俺個人を狙ってくるとは考え難い」
「ならば良いのですが…」
銀は憂いに満ちた表情で主を見つめた。
「いずれにしても、本日は酷くお疲れのご様子。そろそろ、四半刻でよいのでどうかご休憩くださいませ。
只今女房に茶を申し付けて参ります」
今度は主も止めなかったので、銀はそのまま簀子縁まで滑り出た。
何か疲れを癒す甘いものでも添えさせようと台盤所に向かって歩く銀はまだ気づいていない。
主が患っているのが風邪でも、呪詛でも、疲労でもなく、それらを引っくるめたよりも、ある意味もっとタチが悪く、最も厄介な病(やまい)だと言うことに。
…譲ごめん。でも、暴走譲書くのは楽しかったですv(笑)