泰衡が執務に使用している東の対から続く東中門廊を、望美は銀に引きずられるように歩いていた。
望美が入ってきたのは正門である西門の方だが、造りは東のこちらも変わりはないらしい。
南に向かってドンドン進んで行くので、最初はもしかしてこちらの中門から追い出されるのではないかと望美は危惧していたが、東中門の沓脱(くつぬぎ)の所で 、ここから先は床がございませんので、と銀は彼女に草履を勧めると門は素通りし、更に敷石を踏んで、南へと導いていく。
やがて。
突き当たりの建物の所で銀は足を止めた。
「さあ、神子様。どうぞ」
ふわりと水の匂いが望美の鼻腔を掠めた
銀に促され、正面の建物に草履を脱いで上がった望美は、眼前に広がる光景に目を瞠った。
「わあ!」
屋根はあるが、周囲が吹き放しのその殿舎は広大な池の上にせり出して建てられていた。
寝殿や対の屋と違って周囲には庇がなく、直接簀子が取り巻いているが、高欄はない。
瑞々しい水気を胸いっぱいに吸い込んで。
「銀、ここは…?」
後から上がってきた銀を振り返り、問う。
「こちらは『釣殿』でございます」
「…釣りをする所なの?」
「いえ、それが名の由来でございますが、こちらでは現在は専ら夏の宴や涼を取る為に使われているようでございます。
神子様、お気に召しましたか?」
「うん」
「それはようございました」
道中ずっと膨れていた望美がやっと笑顔を見せたことで、銀もホッとしたような笑みを浮かべた。
望美は水際の簀子に腰を下ろすと膝を抱えて、銀も隣に座るよう手招いた。
「見た目も涼しげだし、空気も少しひんやりして気持ちいいね。
泰衡さんも、ここに持ってきて、お仕事すればいいのに…」
「それは少々難しいかと。重要な書類が風などに飛ばされて、水に落ちでもしたら取り返しがつかぬことになりますゆえ」
「……そっか。私ってやっぱり考えなしだな。そのせいでいつも失敗ばっかり…」
「神子様…?」
「これでもね、少しでも泰衡さんの役に立ちたくて頑張ってるつもりなんだけど、でも、いつも…空回りばっかり…」
思わず溜め息が出てしまう。
「そうで…しょうか? 神子様の頑張るお姿は健気で愛らしいと、私などは大変微笑ましく拝見しておりますが…」
「…この前みたいに墨ぶち撒けたり、高価な硯割っちゃたりしても?」
望美がそう言うと、何を思い出したのか銀はくすくすと笑みを零した。
「あの時はさすがの神子様も言われる前に、大人しく高館にお帰りになりましたね」
「だって泰衡さん、怖かったんだもん」
「お叱りを受けたのでございますか?」
ううん、と望美は首を振った。
「叱られはしなかったんだけど、でも、別の意味で怖かったってゆーか…。
だって、泰衡さんてば元々色白なのに、白いの通り越して蒼白になってるし、たいしたことなさげに鼻で笑ってるんだけど、目は全然笑ってないし、何よりあの泰衡さんから、嫌味すら一つも出てこないんだよー」
望美が思い出してぶるりと身を震わせると、銀は何故か声を立てて笑い出した。
「嫌味を言わない泰衡さんがあんなに怖いとは思わなかったよ。あれなら怒られた方がマシだよ。
泰衡さんが嫌味を言わなくなったら、お終いだよね」
あれ? 何か酷いことを言ったような気がしないでもないけど、まあいいや。
「まぁ、あの時はさすがの泰衡様も少々お気の毒でございました。
端渓の老坑水巖と申しましたら、宋硯の中でも最高峰、院や帝にも献上される極上品。
ことにあれは瑰紫青花の石紋も美しい逸品でございましたのに…」
ほぅっと溜め息をつく銀を横目で見つつ、望美はうう、と小さく唸った。
そうなのだ、望美が割ってしまったのあの硯は普段は何も見えないが、水で濡らすと藍紫の石に まるで小花が散ったように、青藍色の細かな斑点が浮かび上がるとても綺麗な物だった。
あの日辺りを墨だらけにした望美が汚れた顔と手を角盥の水で洗い、着物を改めさせてもらった後、取り敢えず謝り倒して、早々に高館に引き上げると沈んだ彼女の様子を見て、譲が心配して声をかけてくれた。
ぽつりぽつりと今日の失敗を話す望美に一々うんうんと頷きながら聞いてくれていた譲だったが、硯の名を出した瞬間、ぽかんと口を開けた。
何でも、かの硯は望美たちの世界にもある物だそうで、書家の憧れとなっていて、現代でも質のそれほど良くない物ならそこそこの値段で出回っているが、それでも、良い物になると80万円ぐらいはするらしい。
ならば最高峰は…と想像するだけで冷や汗が吹き出した。
そんなこと一言も言われてないけど、何とか弁償出来ないかなとほんのり考えていた望美は、思わずギャーと叫んで譲を吃驚させた。
翌日、柳ノ御所に出向いた望美が泰衡に、弁償したいけど出来ないから、せめて代わりに祝言まで伽羅御所か柳ノ御所で、雑仕女(ぞうしめ)としてただ働きしたいと申し出ると、「馬鹿」の一言で話を打ち切られた。
本気だったのに…。
「やっぱり悪いことしちゃったよね…」
「そうですねぇ。泰衡様はあまり物には御執着なさらないお方ですが、御愛用のあの硯と曽祖父君の清衡様が、かつてお使いになられていたという舞草刀(もくさとう)の黒漆の太刀だけは大切になさっておいででございましたから」
でも神子様、と銀は思い出して暗くなっている望美に、優しく微笑みかけた。
「過ぎたことをいつまでもお気にやまれていても、仕方ありません」
「うん。泰衡さんにも、余計な言葉を全部削ぎ落とすと最終的にはそんな意味になることを言われた。
勿論全然そんな穏やかな言い回しじゃないけど…。
…でも、口は悪いけど、何だかんだ言って嫌味言いつつも気遣ってくれるし、表現がすっさまじくカーブを描いてるから、とんでもなくわかり難いだけで、根は優しいんだよね、あの人…」
追い払うにも、こんな涼しい場所選んでくれるし、と望美が言うと、銀は微妙な顔をした。
(あれ?)
不思議に思った望美がその理由を訊こうとした時。
「失礼致します」
二人の女房がそれぞれ高杯を捧げ持ち、入ってきた。
銀の鋺(かなまり)が乗ったそれをそれぞれ振り返った二人の前に置く。
その器に入っていたのは――
「わー、かき氷だー!」
うず高く盛られた氷の山に望美が歓声を上げる。
「こちらは何方から?」
銀が女房に問うたが、女たちは、さあ、わたくしたちは先輩女房より、お持ちするよう申し付けられただけでございますので、と言い、下がっていった。
「とは言え御館は、神子様がこちらにいらっしゃることはご存知ありませんから…。となると」
「泰衡さんだ!」
「でございますね」
銀も、にこりと笑って同意する。
あれ…、とゆーことは…。事ここに至って鈍い望美も漸く気がついた。
もしかして、追い払った先に涼しい場所選んでくれたんじゃなくて
――私を涼ませる為に追い払った…?
こんな物まで届けられては、最早そうとしか思えない。
もう、相変わらずわかりにくいなぁ。
望美は自然と顔が綻んでいくのを感じた。
でも、何だかあの人らしいや。
心がふわりと温かなもので満たされる。
食べ終わったら、ちゃんとお礼言いに行こう。そして出て来た時の暴言も謝ろう。
うん、と一つ頷くと望美は添えられていた銀の匙を手に取った。
「銀の分もあるよ。とけちゃう前に早く食べよう」
「それではご相伴に与らせていただきます」
微笑む銀に頷きかけると、さく、と一匙すくって口に運ぶ。
「甘ーい」
口内に広がる涼感と甘みに、何だかそれだけで幸せな気持ちになってくる。
「この世界にも、かき氷ってあるんだね。知らなかったよ」
「はい、こちらの世界でも、冬に運ばせて保存しておいた氷室の氷をこのように薄く削って食し、涼を取ったりいたします。
京でも、皇室や摂関家の方々などごく限られた方しか口にすることは出来ない貴重なものでございますが」
「え、そうなの!?」
望美は一瞬驚いたが、すぐに思い直した。 考えてみれば冷蔵庫のないこの時代、運搬や保存にかかる労力を思えば、それは当然のことかもしれない。
「ところで、こちら神子様の世界では『かき氷』とおっしゃるのですね」
「うん。この世界では違うの?」
「こちらでは『削り氷(けずりひ)』と呼ばれております」
「ふーん。この上にかかってる甘いのはなぁに?」
「こちらは甘葛煎(あまづらせん)と申しまして、甘葛と言うつたの汁を煮詰めた物で、こうして食用以外に香を練り合わせる時にも使われる場合もございます」
この世界のシロップだね〜、と望美はふふっと笑った。
「『しろっぷ』、でございますか?」
「うん、私たちの世界でも、氷にこういう甘いのかけて食べるの。
いちごとかメロン味があって…、あ、メロンって言うのはね、瓜の仲間の異国から来た果物で…」
にこにこと上機嫌で話す望美を、銀は眩しそうに見つめていた。
「はー、美味しかった。ご馳走様」
「神子様のお気に召しましたのならば、よろしゅうございました」
すっかり満足した様子で少女が笑みを浮かべ、立ち上がった。
「ねぇ、銀。私、泰衡さんにお礼言ってくるね」
言うが早いか元気いっぱいに飛び出して行く。
「あ、神子さ…」
その後ろ姿を見やり、銀は小さく苦笑する。
(まぁ、神子様も充分に涼まれたご様子。もう、お戻りいただいても、よろしいでしょう)
中門廊の南端――すなわち釣殿に連れていけと言われ、すぐに主の意図を正確に理解していた銀はそう結論づけると微笑んだ。
■貴(あて)なるもの
薄色に白襲の汗衫(かざみ)。かりの卵(こ)。
削り氷(けずりひ)に甘葛入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。
水晶の数珠。 藤の花。
梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじううつくしき稚児の苺など喰いたる。(枕草子42段より)