パタパタと軽快な足音が辺りに響いた。
近付くその足音に、頭痛の種の襲来を察した泰衡は執務の手を止め、一つ溜め息をついた。
「こんにちは、泰衡さん。今日も暑いですね」
元気良く執務室に飛び込んできた少女は、にこやかに挨拶すると彼の傍にぺたんと腰を下ろした。
懐から手巾を取り出し、流れる汗を拭いながら。
北国なのに、この暑さは詐欺だよねー、と望美が彼女を案内(あない)してきた銀に無邪気な笑顔で零すと穏やかな物腰の青年は、はあ、と微苦笑を浮かべて曖昧に頷いた。
確かに今年の夏はこの地には珍しく例年にない暑さで、ことに今日は風一つないが、それを詐欺と言われても、いかに神子贔屓の彼といえど返答に困るだろう。
「そんなに暑いのならば、何も好き好んでこんな所まで来ずとも、高館の濡れ縁ででも涼んでいればよろしかろう。
高台にあるあそこの方が、ここよりはよほど良き風が抜ける」
冷たくそう言うと、少女はキッと振り返り、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「泰衡さんが『好き』だから、『好んで』来てるんです。
私だって、逢瀬もままならない薄情な仕事人間の許婚なんて持ってなければ、わざわざこんな暑い中、仕事場までなんて押しかけてきません!」
あなたが好きで会いたいから来てるんだと言われ、更にそうさせる原因はそちらにあると付け加えられ、
薄情となじられた許婚は反射的に喉元まで出掛かった皮肉めいた台詞を 飲み下し、渋面を作った。
以前の彼であれば――いや、今でも、彼女以外の人間であれば、薄情だろうと、冷酷だろうと、非情だろうと、
何と思われようと一切関知しないし、寧ろ望むところでさえあったのであるが、
さすがに言い交わした女に言われてはいかな彼とて肯定するわけにはいかない。
祝言を控えた今のこの微妙な時期に、双方に取って危険な方向の喧嘩に発展しかねない。
あの妙に人間くさいところのある白き龍の神は己が神子の婚約を知ると、彼女の幸福を見届け、祝福を与えてから天に還ると言い出し、いまだこの平泉の地に留まっている。
それは彼女の婚儀に出席してから、元の世界に帰りたいと言う望美の幼馴染二人の要望を汲んだものでもあったのではあるが…。
ようは彼女はまだ帰ろうと思えばいつでも元の世界に帰れる状況にあると言うことだ。
まあ、己の多忙さのせいで、彼女に何かと寂しい思いをさせているだろうということは彼とて自覚がないわけではない。
だが、かといって、代わりに八葉にでも、お相手してもらえばいかがか、などとはとても言えたものではなかった。
八葉と神子との間には目に見えぬ絆があると言う。
それだけでも、彼に取っては苦々しい話であると言うのに、八葉の中には神子と八葉の関係を越えて、彼女を女として見ている者も少なくはない。
『姫君が泰衡の奴に愛想を尽かしたら、いつでも熊野に浚っていくよ』などといまだに公言して憚らない輩や、彼を見かけるたびに射殺すような視線で睨んでくる神子に懸想歴、年齢(とし)の数の幼馴染殿などはその筆頭と言えよう。
ゆえに、結局、手伝いに来ると言う望美の申し出を渋々ながら許すはめになる。
「…仕事なんだから、仕方ないだろう」
いつもの切れ味はどこへやら、苦虫を噛み潰したような顔で、世の男どものようなありふれた言い訳を不本意ながら、ぼそぼそと呟く泰衡に、わかってます、と少女は生真面目な顔でこくりと頷いた。
「だからこうして我が儘も言わず、ここに来てるんでしょ。で――」
今日は何を手伝います? と、あっさり気持ちを切り替えたにっこり笑顔で問われ、泰衡は再び溜め息を吐いた。
そう、これは彼女なりの譲歩。
正直、何もしないで大人しくしていただけるのが、一番有り難いのではあるが…。
それでは望美は納得しない。
腕を組み、考え込む泰衡を期待に満ちた眼差しでわくわくと見上げている彼女は、相変わらず『待て』をしている時のくがねの姿を彷彿とさせる。
(…困った…)
彼は本気で困っていた。第一やたらと手伝いをしたがる割に、異世界出身の彼女の出来ることはかなり限られている。
この地に残ることを決めて以来、梶原の娘に手ほどきを受け続け、日常使う文字程度は
どうにか読み書き出来るようになってはいるようだが、それとて漢文が多くを占める仕事の書類では使い物にならない。
ならばと先日、墨を磨らせてみれば、馬鹿力の少女は力をこめすぎて勢いあまって引っ繰り返し、高麗縁の畳一枚と母屋と庇の境の御簾と夏几帳一つを駄目にした挙句、彼が元服前からずっと愛用してきた宋渡りの端渓硯を真っ二つにしてくださった。
書類は細かな汚れが散っただけで無事だったのが不幸中の幸いだが、あの時の惨状を思い出すと、今でも目眩がする。
ううむと考え込む泰衡の額や首筋を嫌な汗が伝う。
その時ふわりと優しい風が彼の漆黒の髪を揺らした。
漸く風が出てきたかと、そちらに目を転じれば、いつのまに取り出したのやら望美が蝙蝠(かわほり)で、彼に風を送っていた。
泰衡と目が合うとにっこりと微笑む。
「今日は、私、何もやることないみたいですね。なら、こうして泰衡さんのこと扇いでます。今日はとても暑いから」
「あ、ああ。頼む」
漸く今日の難題から解放され、泰衡はホッと息を吐き出した。
望美は、仕事に励む想い人の精悍な横顔を見ながら、上機嫌でせっせと手を動かしていた。
先日酷い失敗をして落ち込んでいたが、これならいくらそそっかしい望美でも、しくじることはないだろう。
せっせと風を送りながら、時折望美が話しかけると、筆を止めぬまま、男がぽつりと短く答えを返す。
気だるい夏の午後の時間がゆったりと流れていく。
そんな遣り取りを繰り返して、どれくらい時が経った頃だろうか…?
ふとこちらを振り向いた泰衡が望美を見て、僅かに眉根を寄せた。
「俺はもういいから、少しは御自身も扇がれてはいかがか?」
「え?」
「鏡を見てみろ。汗だくだぞ」
言われ、初めて望美は自分が結構汗をかいていることに気がついた。
慌てて片手で汗を拭うと望美は笑みを浮かべて見せた。
「私はこれくらい大丈夫ですよ。だから、泰衡さんは気にせずお仕事しててください。
――それでね、さっきの続きだけど、その時朔が…」
手を止めぬまま話を続けようとすると、男の眉間の皺が深くなる。
「…うるさい」
ぼそりと、しかし、確かに呟かれた言葉に、望美は目を見開いた。
「え?」
「先ほどからお前がうるさくて仕事にならん。
黙って聞いていれば際限無くいつまでも、べらべらべらべらやかましく喋り続けて…」
「ええっ! だったら、その場で注意すればいいじゃないですか。
後からそんなこと言い出すなんて陰険だよ。何よ、今更…」
面食らい憤慨する望美に、泰衡はフンと鼻を鳴らした。
「今更だろうと何だろうと今からでも言わねば、永遠にあなたの口が閉じることはないだろうが。 銀」
「はっ」
庇に控えていた銀に望美を顎で示すと泰衡は命じた。
「神子殿を暫く隔離しておけ。…そうだな、中門廊の南端にでもお連れせよ」
「畏まりました」
隔離、と言う言葉に望美の顔色が変わる。
「ちょ…やだ! 静かにする、もう、うるさくしないから、ねぇ… ってちょっと聞いてるの!?
泰衡さん! 泰衡さんってば〜!」
しかし、泰衡は既に書類に目を落とし、望美の方を見てもいない。
「さあ、神子様。参りましょう」
優しい声。
穏やかな物腰。
柔らかな微笑。
しかし、望美の腕を取るその手は断固としている。
「銀〜」
望美は泣きそうな顔をして、助けを求めるように、縋るような眼差しで銀を見上げたが、彼は穏やかに微笑んだまま首を振る。
「失礼いたします」
ことわる声音はあくまでも穏やかで。
そのまま腕を引かれ、立たされる。
「何よ、泰衡さんのばかー! 陰険男ー! 悪人面ー!」
御簾が全て巻き上げられた室内から簀子縁へ、ずるずると銀に引きずられていきながら、望美は遠慮なしに叫んでやった。
望美の罵声が遠ざかると泰衡は漸く見てもいなかった書類から顔を上げた。
ふと傍らを振り返れば少女の蝙蝠(かわほり)が開いたまま落ちている。
泰衡は腕を伸ばすと、それを拾い上げた。
扇の表に描かれた図柄に目を落とす。
――薄紅の桜に慈愛の笑みの如き柔らかな光を投げかけるは朧なる満月。
その柔らかな光を放つ満月と汗だくになりながら、にこにこと一生懸命扇を振っていた望月の名を持つ少女の笑顔が重なる。
「…まったくお人好しと言うか馬鹿と言うか…」
彼はパチンと扇を閉じると、深く息を吐き出した。
「フン、愚かな女だ…」
愛おしげにそっと一度扇の表面に指を滑らせると、泰衡はそれを文机の端にカタンと置いた。
自分で書いてて、泰衡VSヒノエって面白そうと思ってしまいました(笑)
この二人って初顔合わせは何年前なんだろう…?
父親同士は仲良しさんですが、息子たちはお互いに反りは確実に合わなそうですね(笑)
(それ以前にそもそも泰衡と反りが合う人間自体非常に少なそうですが/笑)
でも、認めるところは認めあってるんじゃないかな。
機会があったら、書いてみたい二人です^^