小さな逃亡者

 碁盤の目のように走る京の路をあかねはひた走っていた。
 まだ小さくて、高い塀の上にまで飛び乗ることの出来ない子猫は 道なりに逃げていく。
 何度か見失いそうになったが、ちりちりと響く首輪の鈴のおかげで何とか 方向を失わずすんだ。
 と。
 不意に1件の屋敷の前辺りで子猫の姿が見えなくなった。
 何と無く河原院を思い出させるような荒れ果てたその屋敷の塀は無残にも崩れかけ、
子猫の足でも何とか乗り越えられそうだ。

「この中に入っちゃったってことかなぁ・・・?」

 内側の板葺きが露出しかけたボロボロの築地塀を見てちょっと考える。
 崩れて、あかねの腰くらいの高さになった塀はまたぐにはちょっとつらいが、かといって力をかけたら、
自分の体重では乗り越える前に 全部崩れてしまいそうだ。

「まわるしかないよね、うん」

 自分に言い聞かせるように呟くと、あかねは塀に沿って小走りに駆け出した。






 最初の角を曲がると、少し先に門が見えた。

「お邪魔しま〜す」

 一応そう声をかけ、恐る恐る一歩を踏み出して、邸内の様子を窺う。
  やはり人気(ひとけ)は無く、荒れてはいるがどうやら怨霊もいなさそうだ。
 生い茂った雑草からムッと夏草の匂いが立ち込める。
 伸び放題の草を掻き分け、池の周りや木の根元など子猫がいそうな所を 探すが見当たらない。
 次第に奥へと踏み込み、ついに寝殿の端まで辿り着いた時、そこに思わぬ 人の姿を見て
あかねは息を呑んだ。


 夏草の緑に慣れた目に緋色が鮮やかに映りこんだ。
 荒れてくすんだ色彩の中、そこだけが浮かび上がるように艶やかに。
 寝殿の階(きざはし)に腰をかけて、仮面の鬼がいた。
 その膝に追いかけていた子猫の姿を認め、あかねの目が大きく見開かれる。
 緋の衣の上で子猫は丸くなり、すーすーと気持ち良さそうな寝息を立てている。
 その小さな背の丸みを大きな手がゆったりと辿っているのを見て、あかねはふわりと微笑んだ。
 ゆっくりと近づくと、気配に気付いた男が顔を上げた。

「----神子?」

 微かな呟きと共に驚いたようにその手が止まる。

「迷い猫など珍しいと思っていたが・・・では、これはお前の・・・
いや、星の姫のものと言った方がよいであろうな」

「そう、うっかり逃がしちゃって、慌てて追いかけてきたの。
----あなたが捕まえてくれたの?」

 そのまま近づいて取り合えず彼の隣に腰をおろすと、あかねの気配に 気付いた子猫が
目を覚ました。
 立ち上がって弓なりに背を反らして伸びをすると、今度はちょこんと座り込む。

「捕まえてなどおらぬ。こやつが勝手に我が膝にのぼっただけのこと」

 子猫の顎の下をアクラムが長い指でくすぐる。
 ごろごろと喉を鳴らし、子猫は気持ち良さそうに目を細めている。
 いつものように仮面の下に隠されたその表情を窺い知ることは出来ないが、
だが、今日彼がまとっている空気は殊のほか柔らかい。
 それが何だかとても嬉しくて・・・。

「ふふ。----でも、ありがとう。 お屋敷に来て、まだ3日しか経ってなくて、
藤姫ちゃんと私にしか 懐いてなかったの。まだ、女房さんにも慣れてなかったのに・・・ 不思議ね、
アクラムには、よく懐いてるみたい・・・」

 そう言うとアクラムはフッと笑った。

「さあ、どうだろうな。元よりこれも我らも一様に大陸より渡り来たりし一族。
遠い異国の血が呼んだのやもしれぬな」




 そういえば藤姫ちゃんももそんなことを言っていたっけ・・・。




「この世界では猫は貴重なんですってね」

「そう、この平安の世になってから、渡ってきたもので、 この国にはまだ少数しかおらぬからな。
その希少性と元々は仏教の経典を鼠から守護する為に船に乗せられたという 役割で、
御仏の守り手となりし高貴な生き物よ、と都の貴族の間では珍重されている。
----神子、帝に寵愛された猫の話は知っているか?」

 あかねは黙って首を振る。

「『命婦のおとど』などと呼ばれ、五位の位を賜り、専属の乳母(めのと) までいたそうだぞ。
その猫が子を産んだ時には、人の子と同じように産養(うぶやしない)の宴まで開かれたと聞く。
ククッ、愚かなことよな」

 アクラムは嘲笑したが、あかねは素直に目を丸くする。

「そうなんだ〜。私の世界では数が増えすぎて、野良猫になってる子まで いるのに」

「野良猫?」

「うん。引越したり、元々いる猫が子供産んでも、飼えなかったりした人が本当はいけないんだけど、
捨てたりするの。 場所によっては捨てられた子達が増え過ぎて、問題になったりして・・・」

「問題になって、それでどうなるのだ?」

 何と無く言い難くて言葉を濁したあかねに、アクラムがふと奇妙な興味を 示して、先を促した。
 出来ればこの先は言いたくなかったが、そう言われると、何だか続けざるを 得ない感じで・・・。

「そ、そうすると保健所って、ええと、国の庁みたいなところで処分されたり・・・」





 うう。何でこんな話になっちゃったんだろう・・・?




 あかね自身に責任がある訳ではないのだが、自分の世界の嫌な事柄を話すのは
やはり気が進まない。 気まずさに語尾は立ち消え、知らずしらず顔が俯く。
 だが。

「この国の人間のやり口は常に変わらぬな」

「え?」

 突然掛けられた言葉の帯びる冷ややかさに、ハッとして顔を上げた。

「『御仏の守り手』も、やがては屑のように処分されるのだろう。
この国の人間のやり方はいつも同じだと言ったのだ」

 ぽかんとした顔で見上げるあかねに苛立ったように繰り返す彼に、もう先程までの
柔らかな雰囲気はなかった。
 そんな言い方・・・そう言いかけたあかねだったが、形の良い唇を拒絶するように厳しく引き結んだ
彼の横顔に、打たれたように口を噤む。

 傲慢で冷たい、綺麗な横顔。

 秀でた額。すっと通った形の良い鼻梁。薄く酷薄そうな、だが上品な口元。 ほっそりした頤。
 恐ろしげな面を付けていてさえ、ぴったりした薄い仮面は、少しも損なうことなく、
彼の完璧な横顔のラインを浮かび上がらせる。
 けおされたように言葉を失い、あかねはただそれに見入っていた。
 沈黙が流れる。
 ザーッと、その時一陣の風が吹いた。
 まるで、それが合図でもあったかのように。
 不意に彼が口を開いた。

「----まだこの京が造成される以前、そう、今から300年程昔の話だ」

 低い声で語り始める。少し顎を上げ、遠くを見るように、真っ直ぐに、前を見据えたまま。

「この、日の本の民にはない知識と特殊な能力とを時の朝廷に請われ、遠い異国より、
我が一族の先祖は渡来した。
だが、時が流れ、逆にその力こそが朝廷に対抗する脅威ともなりうると 悟った時、
権力者どもの態度は一変した。
京の輩にはないこの金の髪と蒼い瞳を異形とし、京の輩にはないこの不思議な力を
禍々しき悪しき力とすることで、追いやり、迫害し、 排除しようとた。
この特異な能力を請うて自らが招来しておきながら、今度は、この能力こそを魔物の証と定め、
あるべき場所を奪い、 その存在すらも否定した」

 低く押し殺した声に、激しさも常のような嘲りの色も無い。
 ただ、遣る瀬無い怒りと深い哀しみと癒せぬ傷を持つ者の痛みだけがあった。
 胸が痛んだ。
 彼のこんな声を初めて聞いた。
 あかねを惑わす為に嘘を言っているようには見えなかった。


----それが彼らに取っての真実。


 唐突にあかねは理解する。
 決して、彼女がこの世界についてから、聞かされ続けてきたことが 偽りだったとは思わない。
 彼女自身、彼らがやっていることを目の当たりにしたこともある。
 それは変わることの無い事実。
 だが。
 利害や思惑、思想や境遇に基づいて、誰だって自分の目線で物を見る。
 正義や悪の概念なんて、立場や思想の違いで驚くほど簡単に引っ繰り返る。
 それはあかねの元いた世界でも、いくらでもあったこと。
 視点の数だけ真実もある。
 完全な正義や絶対的な悪なんて、物語の中にしか存在しない。
 自分の存在を否定されながら生きていくことはきっとつらい。


(----だから、あなたたちは京を滅ぼすの?)


(----だからって、こんなことしていいわけない)


(----復讐なんて何も生み出さない。間違っている)


 いくつもの言葉が脳裏に浮かんでは消えていく。
 あかねは何度も唇を開きかけては、又、閉じた。
 痛みを知らぬ部外者が正論を吐くのは容易い。

 京を穢し、人を傷つけ、利用する。
 彼がやっていることを肯定することは絶対に出来ない。
 しかし。
 否定することも、またあかねには出来なかった。




 私には、何も言えないよ・・・。





 言葉は。
 ついに声にならなかった。






「フッ・・・詮無いことを言ったな。お前などには解ろう筈もないことを」

 子猫を摘み上げ、あかねの膝に移動させると、アクラムは苦い嘲いを浮かべ、
すっと音も無く立ち上がった。

「だが、それがこの愚かな都の支配者のやり方なのだよ、神子」

 チラリとあかねを見て告げるとすぐに彼女に背を向けた。

 違う、解らないわけじゃないの、そう叫びたかった。
 だが、次の瞬間、喉元まで込み上げた言葉を苦い想いで封じ込める。


----違わない。


 あかねが京を守る龍神の神子として対立する限り、 彼の望みを叶えることが出来ぬ限り、
それは彼に取って 解らないのと同じこと。

 去って行こうとする背中を悄然と見つめる。
 涙が溢れそうになった。
 掛けるべき言葉をあかねは持たなかった。






 アクラムが数歩、歩み始めた時、小さな影がとんとあかねの膝から 飛び降りた。
 子猫はアクラムの足元に走り寄ると、引き留めるように、すりすりと彼の表袴(うえのはかま)に
小さな体をこすりつけ、か細い声で懸命に鳴いた。
 アクラムは立ち止まり、黙ってその姿を見下ろした。
 そして、片手でそっと小さな体を救い上げると、あかねの膝に戻す。
 大きな手でその滑らかな毛皮を撫でながら。

「千年の後もこの国の人間の身勝手さ、愚かさは変わらぬか」

 吐き捨てるように呟きながらも、その手付きは優しい。
 それがあかねには哀しかった。

 

 


 

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