小さな逃亡者

 ちりんと小さな鈴の音がして、ふわふわとした毛糸玉のような体がころりと 転がった。
 転がるやいなやそれは飛び上がるようにして起き上がり、首から伸びた美しい飾り紐が
ピンと張り切る位置までくると、又、ころんと転がり、 その紐にじゃれつく。
 思わずクスリと笑みを洩らすと、三角の耳をピンと立てて、大きな碧の瞳がジッとこちらを
見上げてくる。 その頭を撫でていると、又、自然と口元がほころんでしまう。
 今、寝ていたかと思うと、元気いっぱいに跳ね回り、次の瞬間にはふっと糸が切れたように
寝てしまう。 遊んでいるさまも寝ている様子も、共にとても可愛らしくて、目が離せなくて
さっきからあかねは飽きもせずに、子猫の様子を眺めていた。






 お父様が手に入れてくれたんですの〜、と、普段は大人びた振る舞いの藤姫が珍しくはしゃいで
あかねの部屋を訪れたのは3日前のこと。
 零れるような満面の笑顔の少女の腕の中を覗くと、赤い首輪を付けた小さな子猫が
あかねを見返している。 たちまち、あかねの顔もほころんだ。

「いや〜ん、可愛い〜。私にも抱っこさせて〜」

「勿論ですわ」

 まだ名前も付いていないと言うその子猫をそっと受け取って頬擦りすると、 柔らかな毛皮からは
お日様の匂いがする。
 ざらざらする小さな舌で顎先を舐められ、クスクス笑いを洩らしていたあかねに
その様子を微笑みながら見守っていた藤姫がふと、 やっぱり思った通りですわと満足そうに呟いた。
 不思議そうな顔をしたあかねに藤姫は、この子猫は大層人見知りで まだ自分以外には
懐いていないのだけど、でも、神子様だったら、きっと大丈夫だと思っていたのですと説明し、
にっこりと笑った。
 そう言われると、やっぱり悪い気はしなくって、口元に笑みを浮かべ 、あかねは
もう一度子猫の顔をジッと見た。
 すると子猫の首輪から長い紐が伸びているのに気付いて、首を傾げる。
 紐の先を見ると、丁度藤姫に付き従ってきた女房が柱に 結び付けているところだった。

「え、猫も繋ぐの?!」

 思わず声に出したあかねに、今度は藤姫が首を傾げる。

「他のお屋敷でも、皆このようにして、飼っていると伺いましたが・・・。 おかしゅうございますか?」

 真剣な顔で問うてくる藤姫に、お、おかしくはないよと手を ひらひらさせながら、
慌ててあかねは否定した。
 ただ、私の世界では、どこでも大抵放し飼いだったから、 何か見慣れないってゆーか・・・、と
もごもごと続ける。

「まあ、では神子様の世界ではどこにでも猫がおりますのね!」

 目を輝かせる藤姫を見ながら、そういえば、京の町を歩いている時、犬は見かけても
猫って見たことなかったよなとぼんやりあかねは考えた。
  そして、その後の藤姫との会話で、この時代には、猫はまだ大陸渡りの 高級品で、
一部の貴族しか飼えなかったこと、この子猫も日本に来る船の中で産まれたことなどを
初めて知ったのだった。






 それから3日。
 今日あかねの部屋にいるのは子猫のみで、飼い主である少女の姿は 見えない。
 今頃藤姫は左大臣主催の宴で筝の琴を奏でている頃だろう。
 藤姫不在の間、まだ女房にも懐いていない子猫の面倒をみると言い出したのは、
あかねの方からだった。
 丁度、先日で明王の試練が一段落したところで、一休みしたかった時期でも あったし、
それに人見知りする子が自分には懐いてくれたと思うと嬉しくて、 何だか使命感みたいな物も
感じてしまっていたのだ。


 みゃあと小さな声がして、あかねを物思いから引き戻した。
 撫でようと手を伸ばすと、すりすりとあかねの掌に頭をこすりつける。

「なあに? もしかしてお前、お腹がすいたの?」

「みゃう!」

「そう。今、台盤所へ行って何かもらってきてあげるね」

 まるで、そうだと言わんばかりに元気に鳴く子猫にちょっと待っててねと 笑顔を向けると、
紐の先がしっかりと柱に繋がっているのを確かめて あかねは部屋を後にした。
 台盤所で、女房から藤姫が都の北の乳牛院から毎日取り寄せている牛の乳と水煮してほぐした
鮎の身をもらい、あかねは足早に部屋へ戻った。

「よぉ。ちょっと邪魔してるぜ」

「あれ〜。天真君、どうしたの?」

 板間に直に胡座をかいて座っていた少年が破顔して、あかねに声をかけた。

「ああ。ちょっとお前に訊きたいことがあってな・・・」

「なあに?」

 親しい友人の来訪に機嫌よく微笑みながら、何気なく天真の方へ視線を向けた あかねだったが、
その背後を見て、途端に笑顔が引きつった。

「な、何でその子がそこにいるの〜?」

「ん? ああ、こいつ藤姫のか?」

 あかねの視線を辿った天真が上半身を捻って、簀子縁の方を振り返り問う。
 天真が指差す先には、母屋の内で、しっかりと紐に繋がれている筈の子猫があくびをしながら、
毛繕いしていた。




 どーして!?  部屋出る前にちゃんと確認したのにぃ〜!




 泣きそうな顔でブツブツ言っているあかねを天真が不思議そうに見ている。

「もう、何でほどけちゃったんだろう・・・?」

 小声で呟き溜め息をついていたあかねだったが、あっけらかんとした 天真の声に固まった。

「へ? あれってほどいちゃまずかったのか?」

 一瞬頭の中が真っ白になった。

「・・・天真君だったの?!  もー、どーしてそーゆー余計なことするの!?」

「いや〜、こいつが放してほしそうに鳴くから、つい、な」

 悪気の無い顔で、へへへ、と笑う。

「なのによー、こいつ俺が触ろうとすると、フーって怒るんだぜ。
まったく恩知らずな奴だよなー」

 そんな呑気なことを言いながら妙に爽やかな笑顔の天真を見ているうちに
ムクムクと怒りが沸いてきた。

「天真君の馬鹿っ!」

 藤姫に聞くまで自分も知らなかったことはこのさい棚に上げて、 思いっきり怒鳴りつけた。
 だが、それがいけなかった。
 あかねが大声を発した瞬間、それまで小さい体を捻るようにして、自分の肩の辺りを
せっせと舐めていた子猫がビクッと毛を逆立て、文字通り飛び上がった。
 そして着地すると同時に走りだすと、そのまま高欄の下をくぐって、 庭に飛び降りる。
  あかねが呆然と見守る中、子猫は凄い勢いで掛けて行った。






一瞬後。

「待って!」

ハッと我に返ったあかねも慌てて、庭に飛び降りた。

「待て、あかね! 俺も行く!」

 いきなり怒鳴られて、面食らっていた天真だが、取り合えずあかねを1人で行かせちゃまずいだろう、
と、その背に声をかけた。
 だが、立ち上がりかけた天真に、いい!慣れてない人が近づくと、余計に逃げちゃうから!と、
振り返りもせずに叫ぶと、あかねはそのまま一目散に駆け出していってしまった。
 後には訳の分からないままの天真が独り残された。

「・・・ったく何なんだよー、あいつは・・・」

 骨っぽい手でぐしゃぐしゃと橙色の頭を掻き毟る。

「猫なんて放っといても、そのうち勝手に戻ってくるだろーに」

 何故、猫の紐をほどいたくらいであかねがあんなに怒るのか分からない。
 顰め面のまま、少しの間あかねを待ってみたが、まだ暫く戻りそうな 気配はない。

「・・・ま、庭だし、あいつ一人でも大丈夫か」

 大きく息を吐くと、天真はあかねの部屋を後にした。






「どこへ行っちゃったんだろう・・・?」

 あかねは周囲を見渡して、溜め息をついた。
 と。
 ちりん。
 小さな鈴の音に、慌ててそちらに顔を向けると茂みから、小さな子猫の顔が 覗いていた。

「う、動かないでね、猫ちゃん」

 そ〜っと、そ〜っと。
 驚かさないように、足音を忍ばせて少しずつ距離を縮める。
 だが。
 後、少しで手が届くという瞬間、子猫は身を翻して駆け出した。

「あー!もうっ!」




 そんな追いかけっこが何度か繰り返された後、あかねはとうとう子猫を 庭園の端まで
追い詰めることに成功した。
 後ろには塀。
 これで、もう子猫に逃げ場はない。

「さあ、覚悟して大人しくお部屋に戻りなさい」

 勝利の笑みを浮かべ、あかねは捕獲を確信して、子猫に飛びついた。


 掌を柔らかい物がかすめた。
 確かに感触はあったのだ。
 なのに・・・。

「どーしてなの〜!?」

 ダッシュした拍子に、転がった地面をバンバンと叩きながらあかねは喚いた。
 何故か子猫が消えてしまったのだ。
 取り合えず、起き上がろうと、地面に手を付いて、半身を起こしかけると上土(あげつち)の塀の
丁度そのあかねの顔の高さの位置に ぽっかりと穴があいているのが、目に入った。

「・・・・・・・」

 暫し、呆然としていたあかねだったが、次の瞬間ガバリと 跳ね起きた。




 ヤバイ!




 逃げたと言っても、庭の中ならと、まだちょっと安心していた。
 だが、外へ出てしまったとなると・・・。
 ツーッと一筋冷や汗が流れる。
 頭の中に初めて子猫を抱いて、あかねの部屋へ来た時の藤姫の年相応の
あどけない笑顔が浮かんだ。
 いなくなってしまったと知ったら、彼女はどんなに悲しむだろう・・・。




 藤姫ちゃんにそんな思いさせるわけにはいかないよ!
絶対見つけなくちゃ!




 目の前の塀に両手をかけると躊躇わずあかねは乗り越えた。