「卒業おめでとう」
グラスとグラスの触れ合う透き通った音が適度に照明の落とされた落ち着いたバーのフロアに響いた。
「ありがとうございます」
香穂子は淡く色付いた唇をにっこりと綻ばせて、吉羅に微笑みかけた。
可愛らしいけれども、少し大人っぽいエンパイアシルエットの黒のワンピースとファーの付いたボレロは今夜のデートのために、何件も店を回って念入りに選んだものだった。
しっとりとした女性ヴォーカルのジャズが流れ、年代を感じさせる使い込まれた飴色のカウンターの中では、品の良い銀髪の初老のバーテンがシェイカーを振っている。
この店は日本のジャズ発祥の地、横浜でもかなり昔からある店だと吉羅が教えてくれた。
このシックなバーに、今日の服装は、我ながら似合っていると香穂子は上機嫌で、少し気取ってノンアルコールのカクテルを口に運ぶ。
吉羅と食事には何度となく行ったが、彼にバーに連れてきてもらうのはこれで二度目だった。
一度目は金澤と三人で行ったあの時。あの時は制服姿の香穂子をバーに連れて行った吉羅に、理事なのに、何てさばけた人なんだと感動したものだが、単に香穂子のことを気に留めてなかっただけらしい。
付き合い始めて、責任が出てくると逆に色々と厳しくなってしまった。
あの時、何でも好きなものを頼んでかまわないからね、と言ってくれた気前の良さはそのままだが、(これは以前からだが)アルコールは一切禁止だし、夜も十時にはきっちりと家に送り届けられてしまう。
今時、門限十時の高校生なんていないよ、と唇を尖らせてみても、取り合ってもらえない。
とゆーか門限ですらない。香穂子の家は連絡を入れれば、遅くなっても大丈夫だし、外泊だって事前に許可を取ればOKである。
以前菜美と冬海家にお泊りした時だって、母親は快く承諾してくれた。
親より恋人の方が厳しいなんて、普通と逆だ。
「もっと大人のデートがしたいー」
度々騒ぐ香穂子に、君が卒業したらね、と溜め息混じりに吉羅は繰り返してきた。
そうして今日はやっと迎えた念願の卒業式後のデート。
なのであるが――
「えー、もう帰るんですかー?」
非難がましい香穂子の口調に、吉羅は車のエンジンをかけようとしていた手を止め、眉を上げた。
「もう、と言われるほど、早い時間ではないと思うがね?」
「だって、私が卒業したら、大人のデートしてくれるって…」
「だから、今日はいつもより大人っぽい店に連れてきただろう?」
「そうじゃなくて、もっと…」
「もっと?」
「だ、だから…、その……」
薄っすらと頬を染めて口ごもる香穂子を、怪訝そうに吉羅が見つめる。
(どうしよう?)
香穂子は言うべきかどうか迷った。でも、このままだと今日も、いつものように十時には、家に送り届けられて、せっかく色々と準備してきたのが無駄になってしまう。
「…………きょ、今日は…」
もじもじと煮え切らない香穂子の態度に、男の眉間に皺が寄る。
「なんだね? 君らしくもない。言いたいことがあるのなら、はっきりと言いたまえ」
「だ、から…、きょ、今日は菜美の家に、泊まるって言ってきましたっ!」
「は?」
吉羅の瞳が大きくなる。
思わず力いっぱい叫んでしまい、口に出した瞬間、かあぁっと頬が熱くなる。
そのまま俯いてしまった香穂子だが、何のリアクションもないのに不安になって、おそるおそる運転席の方を見上げた。
吉羅はハンドルを握りしめたまま、ぽかんと香穂子を見つめていた。
(やばい。引かれた? 呆れられた? 適当に遊んでる今時の女子高生だって思われた?
うわーん、アリバイ工作なんて無駄になってもいいから、あんなこと言わなきゃよかったー!)
自分がいかに初心(うぶ)な反応をしているか自覚のない香穂子は見当違いな想像に、目の前が真っ暗になる。
泣きそうな気持ちになりながら、香穂子は、今のは冗談と言うことにしてしまおう、そうだそうだそうしよう、と訂正するべくおずおずと口を開きかけた。
その耳に小さく息を吐く音が聞こえた。
「あ、あの…、暁彦さ」
「――本気かね?」
不意に静かに吉羅に問われ、香穂子はハッと顔を上げ、男の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しにも、声音にも、呆れも軽蔑の色も見られないことに、ホッとする。
うん、大丈夫。少し驚かれただけ。呆れられたわけじゃなさそう。
「は、はい」
それでも、やっぱり恥ずかしくて。
真っ赤になって、こくりと頷いた香穂子を吉羅は暫し無言で見つめていたが、やがてスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「ああ、そうだ、私だ。……いや、そちらでもかまわない。…気にしないでくれたまえ。無理を言ってすまないな。感謝する。では」
どこへかけているのだろう? 訝しげに香穂子が見つめる前で、吉羅は携帯を閉じると再びスーツの内ポケットへ収め、フッと笑った。
「さて、では行くか」
「え? ど、どこへ行くんですか?」
「どこへ?」
慌てる香穂子に、吉羅は、にやりと意地悪く唇を歪めた。
「君は今夜は天羽君の家に泊まるのだろう」
「え? えええええー!?」
香穂子の叫びを乗せたまま、車は夜の街並みを走り始めた。
「わあ!」
部屋へ一歩足を踏み入れた瞬間、香穂子は歓声を上げ、目を瞠った。
白を基調にところどころマリンブルーをあしらった広々としたリビングとベッドルームは三方が大きな窓になっていて、270度景色が見渡せるようになっている。
一方の窓からはベイブリッジを始めとする横浜港の景色が、もう一方の窓からはコスモワールドの大観覧車等の横浜市街の景色が、一つの部屋からベイビュー、ナイトビュー両方の景色が眺められる何とも贅沢な造りになっていた。
どちらを見ても宝石のようなイルミネーションが煌めいていて、香穂子はうっとりと目を細めた。
生まれた時から住んでいる見慣れた横浜の街だが、高層階から見る夜景はまた格別に美しく見える。
まさか本当に菜美の家の前で降ろされてしまうのかとドキドキしていた香穂子は、車が彼女も外観だけはよく知っている高級ホテルの正面玄関前で停車した時は今度は別の意味でドキドキし始めた。
目を輝かせてあちこち見て回っていた香穂子がリビングに戻ってくると、吉羅は既に上着を脱ぎ、そこに置かれていた豪華な応接セットのソファに長い脚を組んで座り、ネクタイを緩めているところだった。
「暁彦さん……」
吉羅と目があった瞬間、香穂子の顔がくしゃりと歪む。菜美の家に落とすなんて嘘ばっかり。
「私のためにスイート取ってくれたの…」
感激で胸が詰まった。
「私にはよくわからないが、君ぐらいの年頃の女の子はシチュエーションも、気にするものだろう?
本当はロイヤルスイートを取ってあげたかったんだがね。あいにく先客がい…」
驚いたように、吉羅の言葉が止まる。彼が立ち上がったのが滲む視界の中にぼんやりと見えた。
「…おやおや、泣くほどのことじゃないだろう」
ゆっくりと近付いてきながら、少し困ったように吉羅が笑う。
「私には泣くほどのことなんです!」
ぐしぐしと涙を拭いながら叫ぶと、香穂子は吉羅に飛びついた。
「ありがとう暁彦さん…、すごく嬉しい……。きっと今日のことは、私、一生忘れないと思う…」
再び涙ぐむ香穂子を吉羅が優しく抱きしめる。
「ああ、そうだね」
吉羅は小さく笑うと、香穂子の耳元に唇を寄せた。
「――忘れられない夜にしてあげるよ」
「あ…」
吐息と共に耳元で囁かれた言葉に、ぞくりと背筋が震える。
囁かれた時に掠めるように男の唇が触れた耳が熱を持ったように熱い。
先にシャワーを浴びておいで、と低い声で促され、香穂子は首筋まで朱に染めると、こくんと頷いた。
バスルームの扉を開けた香穂子は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「これがお風呂場……」
先ほど部屋をぐるりと巡ってみた時は、バスルームまでは覗かなかったので気づかなかった。
壁一面に取られた大きな窓からは星屑を振り撒いたような港のイルミネーションが輝いている。
海を眺めながらのバスタイム。少し気にならないでもなかったし、一応ブラインドも下ろせるようになってはいたけれど。
「夜だし、高層階だし、大丈夫だよね」
独りごちると手早く髪を纏め、思い切って、衣服を脱いで全裸になる。
アメニティはホテルオリジナルの物らしかった。 マリンブルーのバスソルトやホテルと同じシルエットのシャンプー&リンスが可愛らしい。
ボディシャンプーで、いつもより念入りに躰の隅々まで磨き上げると、熱い湯を浴びながら、香穂子は湯気で徐々に曇っていく窓の外をぼんやりと眺めた。
横浜港を一望できるこのバスルームからの夜景もとても素晴らしいものだったけれど、でも、一人で見ても少しつまらない。
マリンブルーの湯に浸かりながら、好きな人とふたりで、この夜景を眺めたら、どんなにロマンティックなバスタイムになるだろう。
そう思った瞬間、吉羅の顔が浮かび、香穂子は赤くなって、慌てて頭をぶんぶんと振ると想像を掻き消した。
「わ、私ったら、何考えてるのよ…。一緒にお風呂なんて、絶対無理」
と言いかけたところで、これから一緒に入浴以上のことをするのだと気づき、更に真っ赤になる。
湯に浸かったわけでもないのに、のぼせたように頭がくらくらした。
今からこんなんで身が持つのだろうか?
今更のように緊張してきた躰を無理に動かすと、香穂子はシャワーを止め、置かれていたバスローブを身に纏った。
「どうしよう…、私、すっごい緊張してる…」
落ち着かなげに一度立ち上がったソファに再び腰を下ろすと、香穂子は大きく息を吐き出した。
彼女と入れ替わりに、吉羅がバスルームへと消えた後、一人取り残された香穂子は先ほどから、窓辺に寄って景色を眺めてみては一分も経たないうちにソファに戻ってきたり、テレビをつけてはすぐに消してみたり、何をやっても落ち着かない。
ふとテーブルに置かれていた新聞が目に留まる。
さっきまではなかったはずだから、吉羅の物だろうか。何とはなしに、それを手に取った香穂子は目を落とした途端渋面になる。
「…全部英語だ……」
香穂子はあまり英語は得意な方ではない。
そういえば吉羅は理事長に就任する前は外資系の投資会社の役員をしていたと聞いたことがある。
改めて考えたことはなかったけれど、外資系企業の上の方にいたということは多分外国語も相当堪能なんだろう。
暇潰しにわかりそうな単語だけ拾い始めた香穂子は三行目で諦めてガックリと肩を落とした。
(ぜ、全然わかんない…)
「――こんなところまで来て勉強かね?」
テーブルに戻そうとしたところで、かけられた声にハッと顔を上げる。
「わ…」
くすりと小さく笑うと香穂子の隣に吉羅が腰を下ろす。ビクリと香穂子は躰を強張らせたが、その目はバスローブの襟元から覗く男の広い胸に、引き寄せられる。
慌てて目を逸らしたが、心臓がドキドキした。
ジム通いが趣味だという彼の躰はスーツ姿から受ける印象よりも、ずっと筋肉がついていて、しなやかに引き締まっている。
「勉強、じゃありません…、全然わかんなかったもの」
少し拗ねたように呟いた後、香穂子は意識して、ふっと声の調子を明るいものに変える。
「それよりそれ、部屋に入って来た時から気になってたんですけど、暁彦さんが頼んだんですか?」
ああ、これかね? とテーブルに置かれていたシャンパンクーラーを引き寄せながら、吉羅が言う。
テーブルの上にはシャンパンクーラーにセットされたシャンパンとふたりでは食べきれないほど沢山のフルーツの盛り合わせ、それにチョコレートが置かれていた。
「いや、私は別に頼んでいない」
「じゃあ、ウェルカムギフト?」
カラン、と氷の音をさせて、吉羅がボトルを引き上げると添えられていたトーションで水滴を拭いながら、首を振る。
ラベルにちら、と目を落とすと彼は、ロゼ、か、と小声で呟いた。
「いくら格式の高いホテルでも、“これ”をウェルカムサービスにすることはまずないだろうね」
と、香穂子にも見えるように、彼女の方にラベルを向ける。
「あ!」
どっしりとした太めのボディに、上側がギザギザになったピンクのラベルに星のあるあまりにも有名な“それ”は香穂子でも知っていた。
「そ、そうですね…」
「それにフルーツの量も多過ぎるな。ウェルカムギフトは、確かここは、通常はそのチョコレートと少量のフルーツとミネラルウォーターだけだったと記憶しているよ。
…さっき、本当はロイヤルスイートを頼むつもりだったと私が言ったのを覚えてるかね?」
「はい」
「あいにく既に先客がチェックインしていて塞がっていたわけだが、まあ、さすがに予約もなしで、今日の今日だからな。
気にしないでいいと言ったんだが、総支配人がえらく恐縮していてね…」
そういえばチェックインの時、香穂子は少し離れた所で手続きが終わるのを待っていたのだが、その時に、こんな時間だというのに、フロントスタッフとは別にカウンターの外で出迎えていた年配のスタッフが吉羅に何度も頭を下げていたのを彼女は思い出した。
(あの人が総支配人さんだったのか…)
「おそらく彼が詫びのつもりで、気を利かせたんだろう」
ポンと小気味良い音を響かせて、男の手がシャンパンのコルクを抜く。
グラスの一つに注ぐと、彼はからかうような薄い笑みを浮かべて、香穂子を見つめた。
「随分と飲みたそうな顔をしているね」
身を乗り出すようにして、見ていた香穂子はこくこくと頷く。
随分と話がわかるらしい加地の親と違って、今まで吉羅が香穂子にアルコールを許可してくれたことは一度もない。
「そりゃあそうですよ」
吉羅は僅かに口角を上げると、フルーツの盛り合わせの中から、ブルーベリーを長い指で数粒摘み、もう一つのグラスに落とした。
透き通った淡いルビー色の液体が注がれると、しゅわしゅわと弾ける炭酸を纏った小さな実が細長いフルートタイプのグラスの中をゆっくりと浮かび上がっては、また沈んでいく。
「わあ…」
目を輝かせる香穂子の方へそのグラスを押しやりながら、吉羅が口を開く。
「せっかくの総支配人のご好意を無駄にしても申し訳ないし、それに、今日は君のお祝いだからね。
他に人目もないし、今日だけは特別に目を瞑ってあげるよ」
香穂子の瞳が丸くなる。
「いいんですか!? わーい、やったー! それじゃ早速カンパーイ!」
「ああ、君の卒業に乾杯」
軽くグラスを合わせると、早速、香穂子はそれを口に運んだ。
甘い芳香から想像していたよりも、それはずっと辛口ですっきりしていた。
「美味しー」
はしゃぐ香穂子の姿に、吉羅は微かに口許を緩ませた。
「それに、少しは飲んだ方が君の緊張もほぐれるだろう」
思いがけない言葉に、香穂子の動きが止まる。
「…気づいて…たんですか?」
「そりゃ、それだけ震えていればね」
小さく苦笑する吉羅に、香穂子は俯いた。
「自分から言い出したのに…、ごめんなさい…」
「いや、君が謝るようなことじゃない。――怖いかね?」
少し、と答えると、すっと伸びてきた大きな手がなだめるように、香穂子の頭を何度も優しく撫でる。
いつもなら、また子供扱いして、と彼女の口を尖らせるその動きが、何故か今日は酷く心地良い。
「でも、それ以上に緊張してます。私、今、コンクールで初めてステージに立った時より、緊張してるかもしれない。ねぇ」
ふと思いついて香穂子は訊いてみた。
「暁彦さんも、初めてのコンクールの時は緊張した?」
「さあ、どうだったかな。…随分昔のことだからね。忘れてしまったよ」
やや素っ気無いその答えに、香穂子はおやっと言うように首を傾げた。
「あれ、意外。 『コンクール、がんばるぞ〜!』って、あんなにやる気満々だったのに」
そう言ってにやりと笑う香穂子に吉羅は渋い顔をした。
「…また、それを言うかね」
「ふふっ、クールな理事長『吉羅暁彦』にも、あんな可愛らしい時代があったんですね〜。
もっとも、当時から負けん気は凄かったって、金澤先生が言ってましたけど…。
暁彦さん、最初は金澤先生のこと目の敵(かたき)にしてたんですって?」
「やれやれ、金澤さんはそんなことまで君に話しているのかね。後で、一言言っておかないと…」
でも、まあ、と男の手の動きが止まり、彼は一瞬だけ遠くを見るように目を細めた。
「あの人が私に取って、はじめての大きな壁だったのは事実だな…」
ぽつりと呟く吉羅に、香穂子は、後で一言の時とやらに、金澤があまり叱られないように、彼のフォローのつもりで口を開いた。
「あ、でも金澤先生、こうも言ってましたよ。あいつは大変な自信家で、でかい口も叩くが、必ず言っただけのことはやり遂げる男だって……。
あっ! 本人には言うなって金澤先生から口止めされてたんだった…」
香穂子は慌てて口を押さえたが、まあ、誉め言葉だし、いいよね、とえへへと笑う。
吉羅は香穂子の頭に乗せていた手を引くと、腕を組んだ。
「おだてても、今日はこれ以上は何も出ないよ」
「ふふ、これだけ色々してもらってるのに、今日はこれ以上なんて求めませんよーだ。
実際、学院の再建だって、そりゃあ途中ちょっとしたプランの変更はありましたけど」
クリスマスコンサートの時のことを思い浮かべ、香穂子はペロリと舌を出した。
「移転も分割もせず、更に最初に暁彦さんが立てた予定通り、寄付も募らず、学費も値上げせず、それどころか職員の一人もリストラすることなく、給与を削減することもなく、見事成し遂げて私、本当に凄いと思ったんですよ。まあ、私も少しばかりお手伝いしましたけど」
本当は少しばかりどころか殆ど無茶ぶりと言っていいほど苦労させられたのが実際のところなので、香穂子は少々含みを持たせて言ってみたのであるが、
その当の張本人である男は彼女に無理難題をふっかけた時と同じく涼しい顔をしている。
「あの時も言ったが、君たちの要望を汲んで計画の変更を余儀なくされたのだから、代わりの計画に君が協力するのは当然だからね」
正論である。確かにあの時も彼は理事長室でそう言っていた。だが、それだけが理由じゃなかったことをお喋りな妖精のおかげで、今の香穂子は知っている。
あの時の苦労による成長があったからこそ、現在の自分があることも。そして、彼が一見冷たく見えるポーカーフェイスの下で、どれだけ香穂子のことを考えてくれていたのかも。
「わかってますよ、暁彦さん」
香穂子は色々な想いをこめて、そう言うと彼に優しく微笑みかけた。
「だから、オケのコンミスなんていきなりあんな無茶なこと言われても、私、協力したでしょう。
それに私が協力したの、プラン変更への責任感だけじゃないですし…」
わかってるでしょう、と熱を含んだ眼差しで男の顔を見上げる。
まあ、今となってはね、と小さな笑みを浮かべると、男の手のひらがそっと香穂子の頬を包み込む。
「熱いな。瞳も随分と潤んでる。少し酔いが回ってきたのではないのかね?」
「そう、なのかな…?」
確かに先ほどからふわふわと良い気分になっている。
話すうちに、殆ど空になっていたグラスを取り上げると、香穂子は最後の一口を流し込んだ。
残りのシャンパンと共にグラスの底に沈んでいたブルーベリーも口内に移動する。
軽く噛むとシャンパンを吸い込んだ果実の甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。
「美味しい〜」
香穂子がうっとりと瞳を細めると、吉羅はフッと笑った。
「まるで『fruit d'ivresse』だな」
「…? どういう意味ですか?」
「陶酔の果実、とでも言っておこうか」
「とう…すいの果実? 何だかちょっと官能的な響きですね」
くすくすと笑う香穂子に、吉羅も僅かに口端を上げる。
「そうかもしれないな。何せこれは」
そこで吉羅はふっと言葉を止めると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
低い声で、戯れのようにゆったりと口ずさまれた聞き覚えのあるメロディに、香穂子は束の間目を瞠り、やがてほぅっと溜め息を零した。
「いい声……」
深みがあり、よく響く。元々いい声だとは思っていたけれど、いつもは冷たい響きを帯びていることの方が多い彼の声が、歌うとほんの少し甘くなるのがまた素敵だった。
「暁彦さん、声楽専攻でもいけたんじゃないですか」
うっとりと目を潤ませる香穂子に、吉羅は彼女の頬に添えていた手を離しながら、苦笑する。
「まさか。金澤さんに怒られるからやめてくれ。それに私はベルカントやら何やらのクラシックの唱法なんて知らないよ」
「え? …でも、これクラシックの曲ですよね? 歌詞があったなんて知らなかったけど…」
そう、このメロディは彼にとっても馴染みの深い――
「何だ、知らないで演奏していたのかね? この曲は元々はシャンソンだよ。
後にサティ自身の手でピアノ編曲版も作られているが」
「そうだったんですか…」
ということはこれはフランス語なのだろう。
「どういう歌詞なんですか?」
香穂子が問うと、吉羅は少し考えた後、口を開いた。
「それは…、帰宅してから調べたまえ。自分で、ね」
揶揄するような彼の口調に首を傾げる香穂子にくくっと喉を鳴らすと、それより、と吉羅はシャンパンのボトルを取り上げると再びトーションで水滴を拭った。
「グラスが空のようだが、もう少し飲むかね?」
「あ、はい」
香穂子が自分のグラスを吉羅の方へ差し出す。
だが、吉羅はシャンパンを彼女のグラスへは注がず、そのままボトルを自分の口許に運ぶと、それをぐいとあおった。
吉羅らしからぬその行動に少し驚いたが、そんな乱暴な仕草も少しも品悪く見えないのは、彼の生来の育ちの良さゆえだろうか?
ぼんやりとそんなことを考えていた香穂子は、不意に抱き寄せられ、口付けられて息を呑んだ。
「っ…」
勢いよく流し込まれたアルコールを慌てて飲み下すと、すぐに滑り込んできた舌が彼女のそれを絡め取り、強く吸う。
「んんっ…」
ぴちゃり、と濡れた水音が響いた。
最初はよく冷えたシャンパン同様冷たかった舌はすぐに熱を持ち、ざらりとしたそれに上顎をくすぐられ、背筋ががくがくと震える。
何度も角度を変え、深く浅く口付けられ、漸く唇が離れた時には香穂子の息はすっかり上がっていた。
「あ…、もう…暁彦さんが無茶するから…」
香穂子の唇の端からは飲みきれなかったアルコールが零れ、それが顎を伝い、首筋に流れ、彼女の白い肌を汚していた。
荒い息を吐きながら、香穂子が顎のアルコールを拭い、次いで己が首筋にも手を伸ばす。
だが、その前に男の唇が彼女のほっそりとした首筋に落とされた。
「あっ…」
首筋についた酒を丁寧に舐めとりながら、男の唇がゆっくりと下降していく。
時折音を立てながら、軽く吸われ、甘咬みされ、香穂子は熱を帯びた息を吐き出した。
先ほどから躰が熱くてたまらない。
「ふぁ…、あ、暁彦さっ…、待っ…」
必死の思いで彼女が呼びかけると、吉羅は顔を上げてフッと笑った。
「駄目だよ。時間はもう十分にあげただろう」
殆ど優しいと言っていいほどの口調で囁くと、吉羅の手がバスローブの紐を引く。
はらりとローブの前が開き、白い裸身が外気に、そして男の視線に晒される。
悲鳴は何とか噛み殺したが、思わず胸だけは両手で隠してしまった。
彼女が真っ赤になって俯くと小さく笑う気配がし、男の手が優しく香穂子の両手を引き剥がすと、ゆっくりとソファに横たえた。