「詩紋君、元気でやってるかな?」
小さく呟くと再びぱちんと音をさせて蓋を閉じ、落とさぬようにそっと一つしかない大切な時計を袂に戻した。
詩紋の言った通り調理の時は勿論、都と違い、陰陽寮の漏刻博士が管理する漏刻と呼ばれる水時計に合わせ、守辰丁(しゅしんちょう)が時刻(とき)を告げる鐘など聞こえることのない京から遠く離れたこの地に暮らすあかねに取ってそれは何かと重宝する物となっている。
「さて、部屋に戻る前にこれだけは刻んどかなきゃね」
友人のことを思い出し、ちょっとしんみりしてしまった気持ちを取り直すとあかねは菜刀(ながたな)を取りあげた。
そしてまな板に一度茹でて灰汁抜きし、水に浸して絞った羹(あつもの)用の若菜をのせると刻み始める。
(わーん、ちょっと時計見て思い出に浸り過ぎちゃったかも。急がないと年が明けちゃう〜)
毎年年越しは先程の時計を見てあかねがカウントダウンしながら、アクラムと一緒に迎えるのが二人の間の恒例となっている。
だから、早く終わらせて十二時少し前には母屋まで戻らなきゃいけない、そう思って焦っていたのがいけなかったのだろうか。
「キャッ! 痛…」
あっと思った時にはもう、左手の人差し指はすっぱりと切れていた。
「や、やだ、もうこんな時に〜」
血の滲む人差し指を咥えると、あかねは急ぎ足で母屋に向かった。
小さな悲鳴が聞こえ、彼は土器(かわらけ)に伸ばしかけた手を止めた。
やれやれ、と美しい顔に苦笑を浮かべ、立ちあがると、部屋の隅に置かれていた二階厨子の前へ歩み寄る。
(さて此度は火傷か切り傷か…?)
謡いのような調子で独りごちながら、中の棚に置かれていた手筥を取る。
(小さな悲鳴であったから、大事無いとは思うが…さて?)
果たして彼が元の位置に戻り、腰を下ろすのと、そこにちょっと涙ぐんだあかねが駆け込んできたのは、ほぼ同時だった。
「アクラムー、切り傷に効く薬草って、まだあったよね? あれ、どこだっけ?」
彼の前にぺたんと膝をつき、来るなりそう言ったあかねにアクラムは形の良い眉を寄せる。
(…やはり切ったか)
「何処を切ったのだ? 見せてみるがいい」
「う、うん。此処なんだけど…」
ややおずおずとそれでも素直に差し出された小さな手を取ると、今までひらみにくるまれていた左手の指先に真紅の線が入っているのが目に映る。
アクラムの見ている前で、みるみるうちにその線は盛り上がり、つーっと赤い滴となって零れ落ちていく。
咄嗟にその指を口中に含むと滲み出る血を舐めとる。
そのまま傷口にゆっくりと生温かい舌を這わせ、癒していく。
「…っ……」
ピクンとあかねの躰が強張った。
「…んっ……も、いいよ……だいじょぶ…」
眉根を寄せ、赤い顔して彼を見上げるあかねの吐息は微かに乱れている。
そんな表情をされてしまうと、ついつい悪戯心が込み上げるのを止められない。
「…消毒だ」
薄く笑うと、短く言い捨て、今度はすっぽりと深く白い指を咥えこみ、傷とは関係無い指と指の間の薄い皮膚まで舐めあげる。
あかねが大きく息を呑んだ。
ぞくりとその身を震わせて。
「…っ! もう、意地悪ー!! 絶対わざとやってるでしょ…」
真っ赤な顔で彼を睨む少女の瞳は既に涙目になっている。
「もう、いい! 自分でやるから離してよ!」
「まあ、待て」
これ以上やると本気で怒り出しそうな少女の剣幕に、振りほどこうと懸命に力を込める小さな手から名残惜しげに唇を離すと、アクラムは何とか含み笑いを噛み殺す。
そして、あかねの目の前に背後に隠していた先程の手筥を翳してみせた。
少女の大きな瞳が見開かれる。
「あれ? …どうして分かったのー?」
「お前ほどわかりやすい者はおらぬだろう」
ごく当然のような口ぶりで答えると、手筥を開け、包帯と予め干して同じ大きさに切り揃えてある薬草の入った包みを取り出した。
血止めの薬草を当て、手際良く裂いた白布で巻いて押える。
「ありがと」
「―――それだけか?」
片眉を上げて揶揄するように問うと、もう、と、笑いながら、あかねは彼の頬に軽く口付けると、もう一度礼を言った。
「これからは気をつけるがいい」
「うん、手間取らせてごめんね。ちょっと羹(あつもの)用の若菜を切るのに焦ってて…」
「鑪下に羹を和す俗人之をてい指に属す、か
(ろかにあつものをくわす しょくじんこれをていしにしょくす)」
ふと口をついて出た言葉。
「え、それどういう意味?」
わからぬか?と問うて、漢詩はちょっと、と首を傾げる少女の白くたおやかな手を取る。
「若菜の羹(あつもの)を調ずるのは、白くしなやかで美しい女人の手にまかせるものだ、ということだ。このような、な」
言うと素早く細い指先に口付ける。
「また…もう…」
油断も隙も無いんだから、と唇を尖らせつつも、あかねの頬がポッと染まる。
「―――お前の手は宦iふじばかま)のように優しくたおやかで、美しいな」
「アクラム…」
柔らかな手を弄びながら告げる言葉に、あかねは大きな瞳を潤ませて彼を見つめる。
「――『手』はな」
瞬間、あかねのこめかみがひくりと動くと、彼に預けていた手を思いっきりもぎ離した。
「どーいう意味よ!一言多いんだから、もー!」
意地悪げに唇を歪めて笑うアクラムを睨みながら、あかねは頬を膨らませる。
「だいたいアクラムはねー、いっつもそ…」
「―――ところで、そろそろ子の刻の頃合ではないのか?」
更に何か言いかけるあかねにアクラムが、さらりと良い間(ま)で口を挟む。
「え! やだ、忘れてたっ! わーん、後1分しかないよ。危ないところだった〜」
慌てて袖の中から時計を取り出して騒いでいるあかねは案の定、もう、今怒っていたことなど忘れている。
くすりと1つ笑みを零すと。
慌ててひらみを外し、彼の隣に座ったあかねの手元をアクラムも覗き込む。
「いくよ〜。十(とお)、九つ、八つ、七つ、六つ、五つ、四つ、三つ、二つ・・・明けましておめでとう!
今年も宜しくね」
にこにこと満面の笑みを浮かべるあかねに彼もああ、と薄く笑んで頷き返す。
「年も改まり、これで一つ大人になったのだから、少しは落ち着いてもらわぬとな」
言って軽く苦笑する。
「まったく、人妻となってもそそっかしいところは少しも変わらぬ」
「だって…」
反射的にそう言いかけたもののまだうっかり指を切ってしまってから、幾らも立たぬこの状況では流石に言い訳は出来ぬと見えて途中で口を噤む。
「そりゃ私は変わってないかもしれないけどさ…。あ、でも…」
彼の小言めいた言葉に少し拗ねたように唇を尖らせていたあかねがふふ、と笑う。
「でも、アクラムは変わったよね」
「――何?」
「怖いくらいに張りつめていた物が無くなった…っていうか凄く、そう、この頃凄く柔らかい空気を纏うようになった」
「――別に変わらぬ」
嬉しそうに微笑むあかねにアクラムは素っ気無く言い捨てたが、彼女は相変わらず柔らかな笑みを浮かべて彼を見つめている。
「ふふ、本当は自分でもわかってるくせに。あ、でも…」
ぱちんと両手を胸の前で合わせると。
「口が悪くて意地悪なところは相変わらずかな〜」
チラリと彼を見て、からかうように笑う。
「その口が悪くて意地悪な男がお前は良いのであろう?」
にやりと笑って意地悪く問うとあかねはウッと詰まり、顔を赤くした。
唇を噛んで俯くあかねに、フッ、勝ったな、とアクラムは余裕の笑みを浮かべる。
しかし、次の瞬間、負けん気の強い少女はキッと顔を上げると、意想外の反撃に出て彼を驚かせた。
「―――そうだよ!口が悪くて意地悪で、傲慢で冷酷で矜持が高い、莫迦で頑固で我儘で、意地っ張りで不器用な、でも時々優しいアクラムが私は世界で一番大好きなの!!」
その言葉とともにあかねは勢い良くアクラムに飛びつくと彼の首に腕を回し、力を込めてぎゅうっと抱きついた。
「――悪い?」
そのまま彼の膝に腰を下ろし、くすくすと悪戯っぽく笑いながら、至近距離でアクラムを見つめる少女の瞳は強気に輝いている。
さしもの彼も束の間呆気に取られていたが。
次の瞬間、肩を震わせて笑いだす。
不意に飛び込んできた躰をゆるぎもせずに受け止めた長身の美丈夫は、くつくつと喉を鳴らしながら、少女の背に腕を回す。
「クックック…随分な言われようだな。この私によくもそのような口がきける。
――果たして、口が悪いのはいったいどちらなのだろうな? ん?」
滑らかな頬に手を添えて、きかん気な瞳を覗き込む。
「アクラムはその口が悪くて、そそっかしい娘が好きなんでしょう?」
すかさず先程のお返しとばかりに切り返す少し得意げなその表情(かお)が、何とも小憎らしくも愛おしくて。
「さあ、どうだろうな」
澄ました表情(かお)でアクラムがすっと頬の手を外し、視線を逸らすと、可愛くないんだから、もう、と1つ溜め息をつくとあかねは、ぽふんと彼の肩に顎をのせた。
風の音が聞こえる。
どさりと。
何処かで雪塊の落ちる音が響いた。
そのままおとなしくなってしまった少女の心地良い重みと温もりを感じながら、暫し空いた方の手で盃を口にはこんでいたが、ふと気付けば規則正しい呼吸音。
「おい、あかね。眠って…しまったのか…?」
華奢な躰を抱え直して、顔を見れば、少女はすやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている。
「まったく、こんな所で寝たら風病を起こすだろうに…」
しょうがない奴だ、と呟いて、くすりと笑うと、アクラムはあかねを抱え上げた。
そっと帳台の茵(しとね)に少女の躰を横たえると、ふっくらとした真綿の入った絹の衾(ふすま)を喉元まで引き上げてやる。
すると、軽く身じろぎして、少女が目を開いた。
「ねぇ、アクラム…」
眠そうなとろんとした目といつもより少し舌っ足らずな口調で彼を呼ばう。
「…何だ?」
「ん、あのね…ずっとこうやってこれからも2人で年を重ねていけたらいいなぁって…。
――来年も再来年も、これからもずうっと一緒にいようね」
にこりと笑むと、彼が返事をする間も無く、そのまままたすーっと眠りに落ちていく。
ふと、胸を突かれた心地がして、アクラムは短く息を呑んだ。
(……髪も伸び、少しは大人らしうなったと思うていたが…)
「……こうしていると、やはり少しも変わらぬな」
柔らかく瞳を細めて少女を見つめると、ぼそりと呟く。
すやすやと幼子(おさなご)のように眠るあどけないその顔は彼と初めてまみえたかつての神に選ばれし乙女の頃のまま。
誰よりも強く美しい気を持つ稀なる少女。
彼から全てを奪ったあの神から、彼が唯一奪いせしかけがえのない存在。
遙か千年の彼方から彼が招き寄せ、ひとたびその運命(さだめ)によりて引き裂かれるも、百年(ももとせ)の隔てを越え、再び巡りおうた娘。
「来年、再来年だと? フン、甘いことを言ってくれる」
さらりと豪奢な金糸を掻きあげると、片頬を歪めるようにして不敵に笑う。
己の罪を忘れたわけでは無い、流石に同じ蓮(はちす)のうてなというわけにはゆかぬだろう。
だが、それでも―――
幾たび生まれ変わろうとも、私は必ずやお前を見つけ、この腕に捕えるだろう。
たとえうつつの身が朽ち果てようとも、清らなその魂の輝きは変わりはすまい。
少女の柔らかな前髪を掻き寄せると、そっとその生え際に唇を落とす。
「未来永劫離しはせぬよ。お前は永遠にこの私のものなのだから」
眠る少女には聞こえる筈の無い囁き。
それでも、男の唇には酷く満足そうな微笑みが浮かんでいた。
えっと文中にも出てきましたが、『漏刻』というのは水時計のことです。
アクラムとあかねちゃんが一緒に年を越すお話を書きたいな〜と思って、どうやって2人に時刻を知らせようかと考えまして、まず除夜の鐘を調べたら、鎌倉時代からの風習だそうで、漏刻は水時計だから、最初砂時計の少し大きくなったようなのを想像してたので、じゃあ漏刻あることにしよっかと思って調べたら、これが噴水みたいなどでかい代物で…(笑)
24時間分の水を使うんですから、冷静に考えればどれだけ大きいか調べる前に
想像がつきそうなもんですが…。アホじゃ(笑)
そんな訳でとても個人で所有、管理出来るようなもんじゃないと諦め、苦肉の策で詩紋君登場となったのでありました(笑)
あかねちゃんが召喚された時、腕時計してたというのも考えたのですが、今の高校生の子もそうか分かりませんが、私自身ケータイを持ち歩くようになってから腕時計って全くしなくなったので、あかねちゃんもそうかなって…。
後、してても多分デジタルだろうから、すぐ電池切れちゃうだろうし…(笑)
「同じ蓮(はちす)のうてなの露」はいわゆる「一蓮托生」の語源(でいいのかな?)で、割とこの頃の人が使う言い回しですね。