傍らの瓶子(へいし)を取り上げ、土器(かわらけ)に注ぐと、クイッと喉を反らして 一息に干す。
熱い液体が喉を焼く心地良さに目を細めながら、アクラムは真木の柱にゆったりと背を預けた。
静かな夜だった。
側に置かれた火桶のおとしの中の灰は綺麗にならされ、赤々とした炭火が熾きていて、彼の周囲の空気は暖かい。
旨い酒、暖かな部屋、満ち足りた穏やかな時間に自然彼の顔に笑みが浮かぶ。
もう夜更けも近いというのに時折、厨(くりや)から、とんとんとん…と一定の調子で小気味の良い音が響き、こちらにまで先程から良い匂いが漂い始めている。
あかねが明日に控えた正月の祝いの膳を調じているのだ。
毎年暮れも押し迫るこの時期になると、あかねはウキウキと張り切って正月の準備を始める。
まず大掃除と言ってバタバタと屋敷中の埃を払い、磨き上げると、市で求めてきた餅鏡(もちひかがみ)を飾りつけ、一人満足そうにニコニコしている。
そして師走のつごもりのこの日は、殆ど一日中厨(くりや)に篭って過ごすのだった。
今年も、里芋(いへついも)、牛蒡、人参、蓮(はちす)の実、筍(たかうな)、蒟蒻、茸(くさびら)を薄めた鰹の煎汁(いろり)で煮込み、酒、塩、醤(ひしお)、それに少量の蜜で味を付けたという『煮しめ』とやら、菊花に見立てたかぶらを甘酢につけた『菊花かぶ』、羹(あつもの)に餅を入れた『雑煮』とやらの彼女の元いた世界での正月の定番料理だと言う物をせっせと作っているのだろう。
それに干し鮑を柔らかく戻し、蒸した物や押し鮎、鹿の灸物(あぶりもの)といったこちら風の物も祝いの膳には並ぶ。
最初は炊事女(かしぎめ)の真似事などと、あかねが厨(くりや)に立つことに抵抗のあったアクラムだったが、ろくに仕える者とてないこの侘住居(わびずまい)ではそれも致し方の無いことと程なくして思い直した。
元よりこういったことの好きな性分の娘のようで、何より当のあかね自身がいつも楽しそうにしていることを止めることもあるまい。
それに…
それに、そう、細い腰に白の“ひらみ”を結ったあかねの姿も悪くない、と、ふとアクラムは口許を綻ばせた。
それまでにも女房や下仕えの女等、ひらみ姿など幾らでも目にしたことはあったが、今まで特に気にも留めたことなど無かったものを…。
それが何故かあかねの場合だけ殊更新鮮に愛らしく映るのは、どういうわけか…?
我ながら、何とも不可思議な心持ちではあったのだが…。
今日もあかねは遅めの夕餉を済ませると、手早く彼の酒と簡単な肴を用意した後、早々に又、厨(くりや)へ戻っていった。
「まったく、夕餉の後くらい暫し寛げばよいものを……」
ぱたぱたと遠ざかっていく足音を聞きながら、本当によく働く娘だと半ば感嘆混じりの吐息を洩らす。
(―――いや、あの娘にはきっと働いているなどという意識は無いのであろうな)
こういった行事ごとの度に毎度うきうきと楽しげに準備している少女の様子を思い出し、アクラムは口端を上げる。
思えば、やれ生誕の祝いだのバレンタインとやらだのと忍び会っている頃から、行事ごとの好きな娘ではあったなと、往時を思う。
元より京人の行なう年中行事や祭祀などに呪術的な意味合い以上の興味を抱いたことなど無い彼にしてみれば、あかねの行事にかける気合いの入れ方は彼の理解の範疇を越えていたが、それでもいきいきと楽しそうな彼女の様子を見ているとそれも悪くないなどと思ってしまう。
そんな自分に苦笑しながら、酒杯を口にはこぶと、いつの間にか止んでいたあの音が再び聞こえ始めた。
菜刀(ながたな)がまな板にあたって立てるとんとんとん…というその音はどこか暖かく、そして懐かしくて。
「フッ、独りで飲む酒など、味気無いものだとばかり思っていたがな……」
傍らにその姿が無くとも、こうして気配を感じているだけで不思議と彼の心を和ませ、満ち足りた気持ちにさせる少女を想い、アクラムは穏やかに微笑んだ。
「う〜ん。やっぱりほんとは味醂もあった方が照りが出ていいんだけどなぁ。
…流石に味醂はまだ無いよね」
金銅作りの火炉の前に立って、軽く眉根を寄せて鍋の中身をチェックしていたあかねは煮しめの蓮根を一つ摘むとぽいと口に放り込んだ。
途端ににっこりと笑顔になる。
「うん、いいお味♪」
灰をかけて火炉の火を消すと、桶の水で手を濯ぎ、京版エプロン“ひらみ”で、その手を拭う。
かぶはもう甘酢に漬け込んであったし、後は雑煮に使う青菜を刻むだけだ。
「やっぱり、お雑煮が無いとお正月が始まらないもんね!」
何故か拳を握り締めてそう強く思うのはあかねのイベント好きの血が騒ぐのかはたまた習慣と言う奴だろうか。
アクラムと暮らし始めて三度目のお正月。
他はその年によって多少変わることもあるけれど、お雑煮と菊花かぶとお煮しめだけは毎年必ず作ることにしている。
始めにあれこれと考えた結果、こちらで手に入る食材で、あかねが無理なく作れるお正月料理がこの三品だという結論に達したからだ。
料理その物にはあまり味が付いておらず、添えられた塩、酢、醤(ひしお)等で、食卓で食べる時に各自好みの味を付けるこの世界の料理と違い、最初からしっかり味付けのしてあるあかねの作る料理に最初少しアクラムは戸惑っていたようだったが、今ではすっかり慣れたみたいで。
このところ普段の食事でも現代風の物もよく作るようになったが、気難しいくせに好奇心の強いアクラムは何だかんだ言いながらも―――
「結構食べてくれるのよね〜」
うふふと幸せそうに笑った後、あ、もう、そろそろ時間かな? とあかねは呟いた。
袖から丸い物を取り出すと、ぱちんと蓋をあける。
「わ!後10分しかないや。急がなきゃ…」
あかねの掌の上で金色に輝くそれはアンティークの懐中時計だった。
細い鎖のついた古めかしくも上品なデザインのそれはかつて共にこの世界にやってきて、彼女を守り、そして共に戦った仲間の少年の物。
全てが終り、天真と蘭の兄妹と共に元の世界に帰ることになった彼は前の晩、一人残るという決意をかえないあかねを呼び出し、フランス人の祖父から譲り受けたというそれを一人残る彼女への餞だと言って手渡した。
「だって、詩紋君、それっておじいさんの形見なんでしょう?
そんな大事な物、私、受け取れないよ。
お返しに私からあげられるような物も何も無いし…」
そう言って拒むあかねに、詩紋は笑顔で首を振った。
「ううん、お返しなんて何もいらないよ。
僕は今まであなたから、もっと大切でもっと素敵な物いっぱいもらってるもの。
だから、お返しなんて気にしないで。
僕があなたに持っててもらいたいって、そう思っただけなんだから。
それに、ね、あかねちゃんもお菓子作ったりするでしょう。
だから、時計があれば何かと便利だと、僕思うんだ」
懸命に紡がれるその優しい言葉にあかねは目頭が熱くなるのを堪えることが出来なかった。
「……ありがとう詩紋君。ごめんね、一緒に帰れなくて…。
ごめんね、我儘な私で…。でも…でもね、これだけはどうしてもかえられないんだ」
ごめんね、ごめんねと繰り返し、涙ぐむあかねの肩を少し躊躇った後、遠慮がちにそっと抱くと、いいんだよ、と金の髪の少年は優しく微笑んだ。
人参って呼ばれる物は一応平安にもあったのですが、当時の人参って朝鮮人参とか高麗人参とか今も呼ばれているあの漢方の人参で、いわゆる現在のセリ科の人参とはまるっきり別物なのですが、普通の人参も遙か2では「遊気野祭」にしっかり出てくるので(笑)、ええい、じゃあこの創作でも有りだー、と迷った末に入れてしまいました(笑)