皐月の祝い
(なななんで、泰衡さんがここにいるのーーー!!?)

 どうして彼がここにいるのかはさっぱりわからなかったが、泰衡のこれ以上ないくらい不機嫌そうな顔を見れば、この状況がとてつもなくやばいことだけは望美にもひしひしとわかった。
 青ざめる望美の上で、泰衡の視線が止まる。
 その視線が自分の肩に注がれているの気づいた瞬間、それまで固まっていた望美は回されていたヒノエの腕を振り払って立ち上がった。

「や、泰衡さん! あ、あの、これには理由(わけ)がっ!」

 冷や汗を浮かべ、叫ぶ望美を冷ややかな眼差しで一瞥すると、泰衡は氷のような声音で吐き捨てた。

「お前は黙っていろ」

「で、でも」

「俺に、もう一度同じ台詞を言わせるつもりか? 望美」

 ぴしゃりと低い声で言われ、望美はビクッと躰を強張らせた。
 声を荒げた時よりも、このように低音で静かに言われた時の方がこの人は怖い。
 どうやら本気で怒っているようだ、と見て口を噤んだ望美に、フンと鼻を鳴らすと、泰衡はヒノエに向き直った。

「お前がまたこの地に来ていたとはな。
先の戦以前は父君に連れられて、幼き頃何度か訪れたきりだというのに、近頃のこの通いよう、熊野の頭領はよほどこの平泉がお気に召したと見える」

 嘲笑を浮かべる泰衡をヒノエは嫌そうな顔でねめつける。

「悪いかよ」

「いや、光栄だよ」

 だが、と泰衡は嘲るように口許を歪めたまま言葉を継ぐ。

「頭領たる身で、そう度々己が国を空けるのは如何なものかな?
元々お前は腰が落ち着かぬ性分で、八葉に選ばれる以前から国を空けていることが多かったと聞いているが、何も頭領御自ら烏の真似事をすることもあるまい」

 嘲りを含んだ声音にヒノエの眉が不快げに寄せられる。
 別にオレは烏の真似してるわけじゃ、と言いかけたヒノエの上から被せるように、泰衡は言葉を紡ぐ。

「そろそろ手頃な姫君でも迎えて、国元に落ち着いてもよい頃合いだと湛快殿も近頃よく零しておられるようだがな」

「あんたに…」

 一瞬ヒノエの顔が酷く悔しげに歪む。

「あんたにだけは言われたくねぇな」

 刺すような視線で彼を睨み据えて、吐き捨てるヒノエに、泰衡は冷え冷えとした薄い笑みをゆったりと口辺にだけ浮かべた。

「ほう、何故だ?」

 目を細め、さも面白そうにゆっくりと問う泰衡の氷のような眼差しとヒノエの突き刺すような視線がぶつかり、絡み合う。
 バチバチと火花を散らす青白い炎が望美には確かに見えたような気がした。

(ひぃー! 怖いよう…)

 一触即発とはこういう状況のことを言うのだろうか。
 望美が息を詰めて見守る中、先に視線を逸らしたのはヒノエの方だった。
 ふっと力を抜いて。さぁね、と軽く肩を竦めてみせるヒノエはもういつもの表情を取り戻していたけれど。望美の心臓はまだバクバクと鳴り響いていた。
 あーあ、とヒノエは軽く伸びをすると溜め息をついた。

「まったく、言いたい放題言ってくれるぜ。オレは今回はあんたの奥方殿の頼みを聞いて、はるばる京からこの奥州まで足を伸ばしたって言うのにさ」

「…何?」

 ヒノエの言葉に泰衡は不快そうに眉間に皺を寄せ、望美の方を向いた。

「望美、湛増の言っていることはまことか? 本当にお前はこの湛増に頼みごとを?」

 望美が口を開く前にヒノエの鋭い声が割って入った。

「おい、泰衡。湛増湛増言ってんじゃねぇよ。姫君の前ではオレは『ヒノエ』って言うれっきとし」

 今度はヒノエの言葉を泰衡が遮る。

「何がヒノエだ。お前の名は湛増だろう、この藤原湛増」

 フンと鼻を鳴らし、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる泰衡に、ヒノエは顔を顰める。

「……無粋なヤツはこれだからイヤだぜ」

 そんなヒノエを鼻で笑うと泰衡は望美に再び問うた。

「で、お前はやはり頼みごとをしたのか?」

「う、うん。無事に届けてくれさえすれば別にヒノエくんじゃなくても大丈夫って言ったんだけど、ヒノエくん、丁度津軽に用があるからって…」

 どうだかな、とぼそりと小声で泰衡が呟く。

「だが、お前のためにあれが動いたのは事実か…」

 ふむ、と腕を組み、泰衡は少しの間何か考えているようだった。
 やがて、泰衡は一つ溜め息をつくと、ヒノエに向かって口を開いた。

「――かねてよりご所望のくだんの品、夏にはお届け出来ようと、後見人殿にお伝え願おうか」

「何だよ、神子姫へのオレの純粋な親切心を熊野と奥州の外交にすりかえるつもりかよ?」

「フッ、お前の純粋な親切心とやらほど厄介なものはないからな。それに、お前になぞ借りを作るのも真っ平だ」

 特にこれ、と望美の方をちらと見ると、のことでは、と続ける泰衡にヒノエが舌を鳴らす。

「ちぇ。気に入らねぇな。…まあ、でも親父は喜ぶだろうよ。もう宋でも手に入らない貴重な逸品だからな、アレは」

「な、何? 何の話??」

 話がさっぱり見えず、おろおろと視線を彷徨わせ、二人の男の顔を交互に眺める望美に泰衡が冷たく言い放つ。

「お前には、関わりのないことだ」

「でも! 今、私のことで借りがどうとかって…」

 猶も言い募る望美にヒノエが優しく言う。

「姫君は何も気にしないでいいんだよ」

「もう! 今まで殺気満々で睨みあってたくせに、何でこんな時ばっかり意見が合うのよ〜!」

 望美の叫びに泰衡は心外だというように顔を顰め、ヒノエはにやにやと口許を歪めた。

「睨みあっていたとは人聞きの悪い」

「そうそう、オレたちは熊野と奥州の誼みを深めてただけだぜ」

(こ、こいつら……)

 思わず半目になった望美に、泰衡の低い声がかけられる。

「話は済んだ。望美、帰るぞ」

 言いながら、彼女の手首をぐい、と掴む。

「あ、は、はい」

「と言うわけで、我々は失礼する。ではな、湛 増 殿 」

「っ!」

 凄い目で彼を睨むヒノエに、にやりと笑いかけると、泰衡はくるりと背を向けた。

「じゃ、ヒノエくん。色々ありがと」

 慌てて早口に挨拶した望美は、先に歩き始めた泰衡に手を引かれ、そのまま歩み出したが、その耳にぼそりと小さな呟きが聞こえた。

「――まったく、望美も、こんな男のどこがいいんだか…」

「ヒノエくんっ!」

 キッと眉を吊り上げて望美が振り返る。

「あれ……」

 だが彼女が振り返った時には、既にその神出鬼没の姿は掻き消すように消えていた。
 無人の濡れ縁を暫し呆然と見ていた望美だったが、その視線が一つの包みを捉えた瞬間、彼女は声を上げて、泰衡の手を引いた。

「あっ! ちょ、ちょっと待って、泰衡さん」

 うっかり忘れるところだった。思わぬ泰衡の出現とその後の流れで、今まで望美はすっかり本来の目的を失念していたことを思い出した。望美の声に泰衡も振り返る。

「…何だこれは?」

 ぱっと手首を振り解いて、望美は包みを取ろうとしたが、その前に泰衡の手が素早くそれを取り上げた。

「あの…、それは、その…」

 訝しげに問う泰衡に、望美はもごもごと口ごもった。

「ああ、例の湛増に頼んだ品、とやらか。
――答えられないような物なのか。ならばこの場で開けて検めるまでだが?」

 開けられたくなけば答えよ、と半ば脅すような調子で告げる泰衡に、だが、望美はあっさりと頷いた。

「いいよ」

「は?」

「だから、開けてもいいよ。本当は明日まで内緒にしておきたかったんだけど、元々それは泰衡さんに渡すつもりの物だし」

「俺に、だと?」

 思ってもみなかった答えに、泰衡の眉が上がる。

「うん。じゃあさ、立ったままじゃやり難いでしょ。ここに座って開けません?」

 濡れ縁に先にさっさと腰を下ろすと、望美はにこにこと彼を見上げた。

「あ、ああ」

 仕方なく彼も望美の隣に座ると、膝の上に先ほどの包みを乗せる。

 さ、開けてみて、と望美に促され、泰衡ははらり、と包みを開いた。

「これは…!」

 中には一冊の書があった。その題名を目にした瞬間、泰衡の瞳に驚愕の色が浮かぶ。

「『金烏玉兎集』など、どうしてお前がこのような物を……」

 呆然と呟く泰衡を見て、わくわくと彼の手元を覗き込んでいた望美は至極満足そうな笑みを浮かべた。

「これはさすがの泰衡さんでも持ってないでしょ? ふふ、驚いた?」

「……まあ、少しはな。何せ滅多やたらなことでは手に入らぬ陰陽道の秘伝の書だ。
『金烏』とは太陽に棲むと言われる三本足の金の烏で日を象徴する霊鳥、『玉兎』とは月に棲む兎であり、また月そのものをも象徴する。
ゆえに『金烏玉兎』とは気の巡りを読み、日月の歩みを持って世界の理を知る陰陽道をあらわす。
唐の白道上人が唐に持ち帰り、それを遣唐使、吉備真備が唐から我が国の安倍晴明殿に渡し、以来安倍家の人間のみに伝えられている秘伝書と聞くが、それを何故お前が?」

 顎に手を当てて、唸るように呟く泰衡に、望美が得意げにぐっと豊かな胸を張る。

「私の二代前の白龍の神子の八葉には、安倍晴明さんの愛弟子がいたそうなんです。
前に京の嵐山にある星の一族の館に何度か行ったことがあるんですけど、その時に、どういう経緯で伝わったのか記録は残ってないそうなんですが、その本の写しが星の一族の蔵にあるって聞いたの思い出して…。
景時さんがその話聞いて、彼は小さい頃安倍家で修行してたけど、一人前になる前に実家に呼び戻されちゃったから、景時さんでも見たことないって、とっても興奮してたから、きっと陰陽術やってる人に取っては凄い本なんだろうなあって思って」

「で、星の一族から譲り受けたというわけか。しかし、それを渡すのが明日でなければならぬとはどういうわけだ?」

「え?」

「先刻あなたが言ったのだろう。『本当は明日まで内緒にしておきたかった』と」

 だって、と望美は小さく笑った。

「やっぱり誕生日の贈り物は当日渡したいじゃない」

「…誕生日?」

 訝しげな泰衡の声に、望美がちょっと考えた後、口を開く。

「えーと、生まれ日、ならわかる?」

「ああ。だが、生まれ日の…贈り物? 産養(うぶやしない)の祝いを行うのは赤子の時――生まれた年だけだろう…?」

 眉を寄せる泰衡に、望美が慌てたように言葉を継ぐ。

「この世界ではそうかも知れないけど、でも、私の世界では毎年お祝いするんです。
この世界ではお正月に一斉に年取るでしょう。でも、私の世界では生まれた日に年を取るから、ひとりひとり違う大切な、特別な日なの」

 だから、と望美は花が綻ぶように、にっこりと彼に微笑みかける。

「お誕生日おめでとう、泰衡さん」

「……………」

 一日早いけどね、とふふっと笑みを零した望美は、突然低く喉奥を鳴らすように笑い出した泰衡に目を見開いた。
 驚く望美の視線の先で、泰衡は自嘲するように口許を歪める。

「やす、ひらさん?」

 呆然と見つめる望美の前で泰衡はふう、と深く息を吐き出すと口を開いた。

「つまり、ここ数日お前がこそこそ動いていたのは全てこのためだった、というわけか…」

「っ! …気づいてたの?」

 微かに頬を染めた望美に、泰衡がフンと鼻を鳴らすと書を片手に立ち上がった。

「お前と湛増の密会現場に俺が偶然通りがかったとでも?」

「なっ…! 密会って…!」

 頬を更に紅潮させると、望美もガタンと音を立てて、立ち上がる。

「さっきも言ったけど、ヒノエくんには京からここまでそれを届けてもらっただけです!」

 ヒノエに肩を抱かれてるところを見られた時はどうしようかと思ったけれど、今までの話で誤解をどうにか解くことが出来たようだと安心しかけていた望美には泰衡が何故まだ不機嫌なのかさっぱりわからなかった。だから。

「そう思っているのはお前だけかもしれんがな」

 苛立たしげに吐き捨てられた彼の言葉に、望美はぽかんと口を開けた。

「まっさかー」

 からからと明るく笑う望美を、泰衡は呆れたような眼差しで見つめる。

「まだわかっておらんのか。だいたい品の受け渡しなら一度(ひとたび)会えば十分だろう」

「それは…、昨日はヒノエくんがうっかり忘れてきたから…」

「品物を渡しに来て、肝心のその品を忘れてくるなど、お前や九郎じゃあるまいし、あれがそんな迂闊な男なものか」

「そ、それはそうかもしれないけど……。あっ!」

「何だ?」

 そう言われてみれば今日も、こっそり抜け出してきたから、品物だけ受け取ってすぐに帰るつもりでいたのに、ヒノエは何だかんだと話を逸らして、すぐには品物を渡してくれなかったことを望美は思い出した。
 でも、そんなことを言えば泰衡の言葉を認めることになってしまう。
 だが、泰衡からの鋭い視線が注がれている今、咄嗟に彼を誤魔化せるような上手い話を思いつくことも出来なかった。
 仕方なく望美が思い出したことを言うと、案の定それ見たことかと言わんばかりに、泰衡は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「第一何も京からの運搬なら、たんぞ…熊野になぞ頼まなくても、平泉の人間を使えばいいことだろう」

「平泉の人なんか使ったら、泰衡さんにバレちゃうじゃない」

「何?」

 だって、と望美は唇を尖らせた。

「内緒で用意して、泰衡さんを驚かせたかったんだもん……」

 拗ねたように小声で呟くと、望美は俯いた。

 黙り込む二人の間をふわりと一陣の風が吹き抜けていく。
 その風に爽やかな新緑の匂いを感じ、望美は俯いたままふっと目を細めた。
 風薫る五月、とはよく言ったものであると、そんな今の状況にそぐわない考えがぼんやりと浮かぶ。
 吹き抜ける薫風はこの北の果ての大地にも、確かに遅い春が訪れていることを伝えてくれる。
 と、俯く望美の足元に影が落ちた。
 望美は顔を上げようとしたが、その前に乱暴に引き寄せられ、強くかき抱かれて瞠目する。

「やす、ひらさん…?」

「もう……」

 望美の背を抱く男の腕に力がこもる。

「――もう二度と他の男など頼るな。たとえそれが俺のためであっても、だ」

「泰衡さん…」

 驚いて望美が顔を上げると、目があった瞬間彼はふいと横を向いた。

「お前が借りを作ってくるたびに、我が奥州藤原家の宝物(ほうもつ)を手放していてはかなわんからな」

 言い訳するように付け足されたその言葉に、望美は一瞬目を大きくした後、とても優しい笑みを浮かべ、頷いた。










「泰衡さん。ねぇ、泰衡さんてばー」

「…何だ?」

何度も何度も呼びかけて、漸く書から顔を上げた夫に望美は頬を膨らませる。

「もー、せっかくの休みなのに、さっきから本にかじりついてばっかり…」

 唇を尖らす望美に、泰衡はにやりと笑う。

「あなたがくださった物を有り難く堪能しているだけだろう?」

「そ、それはそうだけど…、でも、私のこと放ったらかしにしてまで熱中することないじゃな…って、あー! 言ってるそばから、もー」

 彼女が言い終わりもせぬうちに再び書に目を落としている泰衡に、望美はガックリと肩を落とした。

「信じられないよ…、もう! この本ばか男ー!」

 もう二度とこの男に本だけは贈るまい、と拳を握り締めて、固く心に誓った望美であった。





update : 10.5.12


というわけで、泰衡さんお誕生月おめでとうございます!
公式さんにはいい加減月だけでなく、そろそろ日付まで教えて頂きたいところ、と毎年この時期になると思う次第ですが、取り敢えず『夏の甘味1』の後書きで言っていた泰衡VSヒノエが書けて楽しかったです♪





backnovels index