皐月の祝い
 それを見かけたのはほんの偶然だった。
 所用で訪れていた川湊の通りで、泰衡はふと立ち止まった。
 小物を商う店や食べ物を扱う露店なども多く立ち並ぶこの通りはいつも人で溢れ、賑わっている。
 その雑踏を縫うように、ひとりの女が歩いていた。
 市女笠を深く被り、虫の垂衣を垂らしているので顔は定かではない。
 袿をからげて、裾をつぼめたその姿はいわゆる壺装束と言われている身分ある女人の外出着で、御所の女房連中なども着ているそれ自体はそう珍しい物ではない。
 ならば、一体何が自分の目を引いたのだろうか、と泰衡は自問し、瞳を凝らした。
 纏っている袿も、篠竹の皮で編まれた市女笠も、一目で上質と知れるものだったが、滅多に徒歩(かち)で外出などせぬ女房どもと違い、するりするりと人混みを抜けて行くその足取りは町の女のようにしっかりとしている。
 と、目で追っていた泰衡の視線の先で、その女が前方から急ぎ足で来た若い男とぶつかりかけた。
 すんでのところで、ひらりと身を躱した女の舞うような動きにつられ、紗のように薄い垂衣が翻る。
 その軽やかにして優美な動きと、翻った拍子に露わになった女の口許に、泰衡の切れの長い瞳が大きくなる。

(あの馬鹿、また供も連れず、こんなところで一体何を…)

 漸く女の正体に思い至った泰衡は酷く不愉快そうに小さく舌打ちをした。





 すぐに声をかけ、捕まえなかったのは時折後ろを振り返って辺りを見渡す、人目を忍ぶような彼女の仕草に引っかかりを覚えたからだった。
 第一考えてみれば彼女が垂衣まで用いて、笠を被っているのからして妙である。
 平泉に来る以前から戦場では源氏の戦神子として顔を晒して前線に立って剣を振るい、この地に着いた後も怨霊退治に、呪詛祓いにと奔走していた彼女は、元の世界にいた時もそんな風習なかったし、それに私はお姫様じゃないもん、と主張し、町の女のような動き易く身軽な装いばかりを好み、奥州藤原家総領の正室という地位に落ち着いた現在も、都の姫君のように御簾の奥に引き篭もることも、顔を隠すような出で立ちも、今までは彼の知る限りしたことはない。
 周囲を気にするような仕草といい、普段と違うその格好といい、考えれば考えるほど不審な妻の様子に、ざわりと彼の胸が騒ぐ。

(望美、何を考えている……)

 泰衡の口から重い溜め息が一つ落ちた。










「ごめーん、待った?」

 一定の距離を置き、つかず離れず気づかれぬように後をつけていた泰衡はその声に足を止めた。
 彼が物陰に身を隠すのと時を同じくして、町外れにひっそりと建つ――おそらく廃屋であろう古びた小屋の濡れ縁から、ひとりの若い男が立ち上がった。
 その姿を目にした瞬間、泰衡の瞳が大きく見開かれる。
 ほっそりとして小柄。肩幅もあまりなく胸も薄いその身体つきは、男と言うよりはまだ少年のそれである。

「いや、姫君との逢瀬を待ち焦がれるオレの心が翼となって、刻限よりも早く到着してしまっただけさ。
お前はちっとも遅れちゃいないよ」

 にやりと笑いかける少年に、また、もうヒノエくんたら、と望美もころころと笑う。
 『逢瀬』と言う言葉に泰衡の顔がぴくりと強張る。
 知らず掌に爪が食い込むのも構わず、彼は強く拳を握り締めた。










「…さま? 泰衡様?」

 不意に間近く聞こえた声に、泰衡はハッと顔を上げた。
 すぐ脇に、心配そうに愁眉を寄せて彼を見つめる郎党の顔を捉え、彼は眉間に皺を寄せた。

「あ、ああ、お前か。何だ?」

「あの、墨が……」

「墨?」

 銀の言葉に、泰衡はゆっくりと視線を下ろした。
 彼が握り締めていた筆は、文机の上に広げられた紙の上、文字が半分ほど綴られたところで止まり、黒々とした墨が大きな染みとなって滲んでいる。
 どうやら不意に声をかけられたと思っていたのは彼だけだったようで、しもべは先ほどから自分を呼んでいたらしい。

「……………」

 眉間の皺を一層深めて、無言でぐしゃりと紙を丸める泰衡に、遠慮がちな銀の声がかけられる。

「どうかなさったのでございますか?」

「別に」

 素っ気無い彼の返答に悲しげに顔を歪める銀から視線を逸らすと、泰衡は丸めた紙を脇に置き、新たな紙を一枚取り、広げる。

「なればよろしいのでございますが…。川湊からお戻りになられましてから、どうにも心ここにあらず、と言ったご様子。
泰衡様らしからぬお振る舞いに、お加減でも悪いのかと案じておりましたところにございます」

「フッ、川湊、か…」

 苦い笑みを浮かべる彼に、銀が訝しげな視線を向ける。

「泰衡様?」

「いや、どうということもない」

 そう、どうということもない。
 白龍の神子が彼女の八葉のひとりと旧交をあたためていた。ただそれだけのことだ。
 ただその時の望美の様子が人目を憚るようであったとか、普段着ないような衣を纏って顔を隠していただとか、ただそれだけの……。

(……………)

 ふう、と泰衡は大きな溜め息を吐いた。
 だが、実際あの後、ふたりは連れ立ってどこかに消えるようなこともなく、あの小屋での会話だけで別れていた事もまた事実である。
 なれば高館ででも会えばよいことなのではあるが。
 そう、ヒノエこと熊野別当藤原湛増は現在高館に逗留していた。
 先の鎌倉との戦後、熊野に戻った湛増はあれから何度か平泉を訪れているが、そのたびに今も九郎や弁慶が暮らしている、かつて八葉として仲間同士で住まった高館に滞在する。此度も確かそのはずである。
 彼とは顔こそ会わせてはおらぬが、湛増が平泉入りした際、そう報告だけは郎党から受けた覚えがあった。
 それをわざわざ場所を改めたと言うことは、おそらくは九郎たちにも聞かれたくない、ふたりだけの内密の話だったのだろう。
 先ほどの川湊での密会の折りも、最初の挨拶を交した後、ふたりはずっと声を潜めて話していて、内容を聞き取ることは出来なかった。
 それがまた彼を一層苛立たせるのに、一役買っていた。
 このように気を揉むくらいなら、やはりあの場で質しておくべきだったか、と泰衡は思う。
 だが、望美の行動は限りなく不審とは言え、あれだけで彼女に二心(ふたごころ)有りと決め付けるのも早計というものだろう。
 ――忍び会っていた相手がいかに『姫君が泰衡のやつに愛想を尽かしたら、いつでも熊野に浚っていくよ』などという戯言を彼らの祝言当日までうそぶいていた藤原湛増その人であろうとも。
 それにあの望美に限って、と言う気持ちも認めたくはないが、ないわけではなかった。
 彼が逡巡するうちに、ふたりは話を終え、それぞれ別々の方向に歩き出した。
 質すのならば現場を押さえなくては意味がない。
 機を失した泰衡は仕方なく、そのまままた望美の後を追い、彼女が伽羅御所に戻るのを見届けてから、自分も柳ノ御所に戻り、執務を再開した。
 ―――はずなのであるが。

(どうにも先ほど見た情景が頭から消えん…)

 緩やかに束ねた黒髪を揺らして、頭を振ると再び溜め息を零す。

(――くだらんな。存外俺も普通の男だったということか……)

 自嘲するようにくっと唇を歪めた後、三度(みたび)深い溜め息をついた泰衡を銀が心配そうに見つめる。

「泰衡様、あの…、やはりお加減が悪いか、酷くお疲れのようにお見受けいたしますが…」

「…そう、だな。少し頭が痛いような気がする…」

 それはあながち嘘でもなかった。

「ならばすぐに薬師を…!」

 言いながら立ち上がり、すぐにも母屋を飛び出して行きそうな勢いの銀を手を振って止める。

「いや、いい。少し休めば治るだろう」

「でしたら、本日はもう、このままお休みになられては如何でしょうか?
幸い今は急ぎ認(したた)めねばならぬ書状も、決裁をくださねばならぬ書類もございません」

「休み、か?」

「はい」

 泰衡は腕を組み、目を伏せた。
 確かに今のところ銀の言うとおり、取り急ぎ処理せねばならぬような火急の仕事はなかったし、このところまた休みなしに働く日々が続いていた。
 わかった、と泰衡が腕を解きながら言うと、銀は自分が提案したくせに、酷く驚いたような顔をして彼を見た。

「本当でございますか!?」

「おかしな奴だな。勧めたのはお前だろう?」

 揶揄を含んだ泰衡の問いに、申し訳ございません、と頭を下げると、銀は少し困ったように微笑んだ。
 いそいそと嬉しげに文机の上を片付け始めた銀に、まったく、これといい、望美といい、どうにも自分の周りは自分を働かせたがらない者ばかりで困る、と苦笑を洩らしながら、泰衡は外套を手に立ち上がった。










 泰衡が帰宅すると出迎えた望美は酷く驚いたように目を丸くした。
 仕事人間の泰衡さんがこんな時間に帰ってくるなんて具合でも悪いの? とからかうように笑いかける望美に、ああ、少し頭が痛むようだ、と答えると途端に少女の表情が真剣なものとなる。

「えっ、ホントに具合悪いの!? 大丈夫? 薬師の人呼ぶ?」

 眉根を寄せて、真顔で問う彼女は本気で心配しているようにしか見えない。

「いや、寝てれば治るだろう」

「じゃあ、すぐに帳台整えさすね」

 そう言って女房に指示を出すべく行きかける望美の背に声をかける。

「ああ、そうだ、望美。ついで、と言うわけではないが、明日も休みを取ることになった。
ここひと月ほどずっと休んでいなかったからな」

「そ、そうなんだ」

 振り返った望美の顔が微かに強張っていることに気づき、泰衡の眉が上がる。

「何だ? 俺が休みだと何か不都合でも?」

 望美は慌てて笑顔を作ると首を振る。

「そ、そんなわけないでしょ。久しぶりに泰衡さんとゆっくり過ごせるんだから、嬉しいに決まってるじゃない」

「ほう?」

 すっと泰衡の双眸が細まる。探るような彼の視線を避けるように、望美はふいと顔を背けると、とにかく帳台の用意させてくるから、と言い置いて、小走りに部屋を後にした。
 その背を凝っと見つめる泰衡の耳に、川湊の小屋でずっとひそひそと声を潜めて話していた望美が、最後ということでおそらく気を抜いたのだろう――別れ際に特に潜めぬ声音で発した言葉が蘇る。

――じゃあ、ヒノエくん、また明日ね










 帳台のとばりをそっと引き上げると、望美は足音を忍ばせて、眠る夫の脇へ移動し、腰を下ろした。
 頭痛が今日も治まらぬようだ、と言って、せっかくのたまの休みだというのに、朝餉もそこそこに再び床に戻ってしまっていた泰衡のことを心配して様子を見に来た望美だったが、今、規則正しく寝息を立てているその寝顔が穏やかなものであることにホッとする。
 少し寝乱れていた長い前髪をそっと掻き寄せると、そのまま艶やかな漆黒の絹糸に指を滑らせる。
 それでも身じろぎ一つしないなんて、普段は眠りの浅い彼にしては珍しい。
 よほど疲れているのか、それとも朝餉の後、渋る彼に押し問答して、無理矢理飲ませた薬湯が効いているのか。
 これならば少しの間外出しても気づかれることはないだろう。
 具合の悪い彼を残して出かけるのは少々気が引けたが。

「ごめんね、泰衡さん…」

 小さな声で呟くと、望美はそっと腰を上げた。










「本当にありがとう、ヒノエ君」

「なあに、神子姫の頼みならこれぐらいお安い御用さ」

「それで、今日はちゃんと持ってきてくれたの?」

 昨日と同じ待ち合わせ場所で顔をあわせるなり、挨拶もそこそこにそう切り出した望美に、ヒノエは一瞬だけ苦笑する。

「せっかちだね、姫君。オレたちの時間はまだ始まったばかりだろう?」

 望美の瞳を凝っと見つめながら、艶をこめた声音でそんな台詞を囁くヒノエに、ヒノエくんは相変わらずだねー、と望美も苦笑する。

「そういえば…今日は、昨日みたいに壺装束じゃないんだな。まあ、あれも似合っていたけど、今日みたいにお前の可愛い顔が見える格好の方がオレは好きだから、別にいいけどね」

「今日はちょっと急いでたから…」

 今日はほんの少しのつもりで抜け出してきたのだから、支度に時間などかけていられなかったし、それに泰衡が在宅している日にそんな普段着ないような格好をして、うっかり見かけられた日には言い訳出来ない。

「へぇ、何でさ? 泰衡のヤツにでもバレそうになった?」

 にやりと笑うヒノエに、望美は首を振る。

「ううん、それは大丈夫だけど…」

 望美の答えにヒノエは、だといいけどねぇ、と小さく呟くと、何故かその笑みを一層深くする。
 含みを持たせたヒノエの言葉に望美の眉が上がる。

「…ヒノエくん、それどういう意味?」

 しかし彼はそれには答えず。

「ふふっ、本当にお前は可愛いね」

 機嫌良さそうに笑うと、唐突に望美の肩に腕を回し、そのままぐっと抱き寄せた。

「ちょ…、ヒノエくん、いきなり何す」

 声を潜めていたのも忘れ、思わず大声を出しかけた望美の唇を空いた方の手の人差し指で押さえると、ヒノエはしぃっと囁いた

「静かにしてなよ。どうやら面白いものが見られそうだ」

 悪戯っぽく片目を瞑って見せるヒノエを睨んで、何言ってるのよ、ともがきかけた望美も、次の瞬間“それ”に気がついた。
 辺りを包む大気の温度が数度下がったような気がした。
 ぴたりと凍りついたように、彼女の動きが止まる。
 そんな望美に満足したような笑みを浮かべると、ヒノエはすっと顔を上げ、声を張る。

「――身を隠してるにしちゃ随分と物騒な気を纏ってるじゃねえか、泰衡」

 それじゃバレバレだぜ、とにやりと笑いながら呟かれたヒノエの言葉の一拍後―――
 隣の建物の陰から現れた闇を切り取ったかのような漆黒の姿に、望美は息を飲んだ。

「フン、その前から、お前が気づいていたのは承知の上だ」

 ゆっくりと近付いてくる泰衡は、いつもの仏頂面がまるで菩薩の笑みと思えるぐらい、これまで望美が見たこともないほど、酷く険しい顔をしていた。





update : 10.5.12





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