「ねぇ、泰衡さん、鏡も…じゃなくて、餅鏡(もちひかがみ)っていつ頃から飾るようになったんですか?」
師走のつごもりの宵、それまで御所の女房が飾り付けていった餅鏡(もちひかがみ)を、一体何が面白いのやら凝っと興味深げに見ていた望美がくるりと振り返って彼に問うた。
泰衡は読んでいた書から顔を上げると、眉間に皺を寄せた。
面倒だという表情を隠そうともせずに、この世界にも鏡餅ってあったんだー、と無邪気に呟く妻の顔を見つめ、暫し無言の抗議を試みたが、今更そんなことで怯むような女ではない。
まったく気にせずに、わくわくと彼の返事を待つ望美に一つ溜め息をつくと、泰衡は口を開いた。
「…垂仁(すいにん)帝の御世、大己貴命(おおなむちのみこと)が大田田根子命(おおたたねこのみこと)に神がかりし、『元旦に紅白の餅をもってして、吾が荒魂(あらみたま)である天刑大神(てんけいたいじん)を祀れば、国中の災いが去り、天下泰平の世が続く』との告げがあり、以来餅を供えて祭礼を行うようになった、と伝えられているが」
彼の言葉に望美はぽかんと口を開けた。
「どうした?」
「いや、そこまで詳しい答えが返ってくると思わなかったから、ちょっと驚いて…。
でも、さっすがちょっとでも空き時間があればすぐに読書に走る泰衡さん。無駄に色んなことに知識があるね」
泰衡は無言で、わざとらしいほどにっこりとした笑みを浮かべる望美の白くすべすべの頬に両手を伸ばした。
そのまま左右に引っ張っると面白いぐらいにみょ〜んと伸びる。
「い、いひゃいよ、やひゅひらひゃん…」
「この間の休みを書に没頭して潰したことをまだ怒ってるなら、素直にそう言え」
誉めたのに〜、と薄っすら赤くなった頬をさすりながら、涙目で彼を睨む望美にフンと鼻を鳴らす。
「そうは聞こえん」
「じゃ、言わせてもらうけど、この間のことなんて別にもう怒ってないですー。
泰衡さんと違って、そんないつまでも根に持つ性格じゃないもの、私」
さらりと随分なことを言われたような気がするのは気のせいだろうか?
でも、と望美はキッと彼を睨んだ。
「今日が多分大晦日だからだと思うけど…、せっかく今夜は珍しく早い帰宅だったのにさ、
夕餉の後もずーっとそうやって本ばっかり読んでて…。泰衡さんとの初めての年越し、私、楽しみにしてたのに…」
「…もうすぐ終わる」
恨めしげに彼を睨む少女から目を逸らすと、泰衡はやや小声で呟いたが、望美はその答えに眦を吊り上げた。
「この間も、そう言った!
でも、もうすぐ終わるもうすぐ終わるって言ってて、結局読み終わる頃には日が暮れちゃったじゃないのよー!
今日だって泰衡さんが読み終わる頃には朝になってるに決まってるよ!」
ぎゃーと喚き始めた望美に、やれやれ、と泰衡は膝の上の書を閉じ、傍らに置くと深く息を吐き出した。
「まったく…あなたも餅ならば、そうすぐに怒らずに、もう少し性格も丸くされてみてはいかがか?」
「何よ、どうせ私の顔はお餅みたいに丸いですよ!」
キッと顔を上げた望美の頬になだめるようにそっと触れる。
「いや、そうではなく――古来より餅は歳神の御神体であると同時に、かつ望月にも通じ、その丸い形から家庭円満の象徴とされている」
「へ? もち、づき……あ!」
「おわかりいただけましたかな、望月の君」
「うん」
口端を上げる泰衡に、望美もくすりと笑みを零す。
だから、と彼は少女の弾力ある頬を軽くつまんだ。
「あなたが餅の如くそうすぐに膨れなければ、我が家も、もう少し円満だと思うのだが?」
薄く笑みを浮かべる泰衡を、望美は眉根を寄せて不満そうに見上げた。
「ええー、私のせいなの!? そりゃ確かに私は短気だけどさ…。
でも、私たちの喧嘩の原因の大半は泰衡さんにあると思うんですけど…。今日だって、せっかく一緒にいるのに…。
――泰衡さんは私よりも、本と一緒に年を越したいの?」
「何をくだらんことを…」
呆れが表情(かお)に出ていたのだろう。
だって、と唇を噛み締めると、怒るかと思っていた少女は彼の予想に反して悲しそうに俯いた。
「…………」
泰衡は小さく息を吐くと、頬をつまんでいた指を離し、つ、と顎の下まで滑らせた。
そのまま喉を軽く引っかくようにくすぐると、望美は気持ち良さそうに、今にも喉をごろごろと鳴らしそうな顔をしてうっとりと目を閉じる。
一拍後。
「ちょ! 何やってるんですか泰衡さん!?」
ハッと我に返った望美が泰衡の手を振り払って叫んだ。
「あなたはこれがお好きだったと記憶しているが」
「す、好きです! …じゃなくて! こ、こんなことしてくれても誤魔化されないんだから!」
「フッ、誤魔化すとは心外な物言いだな」
「じゃあ、他にどんな言い訳を用意してるって言うのよ?」
「言い訳など…。夫が妻に触れるのに、理由はいらぬだろう」
言った瞬間顔を輝かせた望美の表情を見て、しまった、と後悔したが、もう遅かった。
「じゃあ妻が夫に触れるのにも、理由はいらないですよね」
すかさず満面の笑みで、飛びついてきた望美に泰衡は頭を抱えた。
一分の隙間もないほど、ぴったりと彼に抱きつくとその背にぎゅうっと腕を回す。
「神子殿、離れ……………る気はないようだな…」
「だって、理由はいらないんでしょ?」
ふうっと溜め息を吐いて、苦虫を噛み潰したかのような表情になった泰衡を勝ち誇ったように一瞥すると、それに今日は寒いんだもーん、と離れるどころか望美は益々彼を抱く腕に力をこめる。
「寒いのならば、その夜着の上にもっと衣を重ねるか、火桶の炭を足させればよかろう」
「火桶よりも泰衡さんの方がいい。あったかいし、良い匂いするし…」
すりすりと彼の肩に頬を擦りつけながら、目を細めて言う。
泰衡の膝の上にまんまと座を占めることに成功した望美はすこぶる上機嫌だった。
だから、ほう、お前はかほどなまでに寒いと? といつもよりほんの少し低い声で問われた時も、にっこり笑って、望美はうん、と答えた。
そうか、と低く呟くと、泰衡の大きな手が望美の長い髪を後ろに掻きやる。
遅ればせながら、望美がやばい、と気づいたのは露わになった首筋に唇を落とされた時だった。
そのまま痕がつくほどきつく吸い上げられ、動転して膝から転がり落ちたことを気にする余裕もないまま、望美は瞠目して彼を見上げた。
「や、泰衡さん…?」
そんな彼女を見下ろすと、泰衡はにやりと不穏な笑みを浮かべた。
「寒いのだろう?」
「さ、寒くない寒くない! もう温まった、大丈夫!」
「ほう。そうは見えぬがな」
頬を紅潮させて叫ぶ望美を面白そうに見やりながら、泰衡は再び唇を歪める。
彼の手がするりと望美の夜着の帯を引く。
「って、着物脱がされたら、もっと寒いじゃない!」
はらりと開きかけた着物の前を慌てて掻き合わせて、真っ赤な顔で後ずさる望美の躰を男の腕がぐい、と膝上に引き戻す。
耳元の触れるか触れないかのごく僅かな距離に泰衡の吐息を感じて、望美はビク、と身を竦ませた。
「ほんの一時だ。すぐに――熱くしてやる」
「あ…」
望美の素肌を男の大きな手が彷徨い始める。
耳朶を柔らかく食(は)みながら、低く囁かれた艶やかな声に背筋をぞくりとしたものが駆け抜ける。
この人の声質が本来はとても甘いものだったと望美が気づいたのは、いつのことだったろう。
冷たく硬質な響きをもって紡がれることが常のその声音からは信じられぬほどに。
険を削ぎ落とし、ほんの少しの柔らかさを纏うだけで、その声は驚くほどの艶と甘さを滲ませる。
その声で耳元で吐息混じりに囁かれるとそれだけで腰が砕けそうになり、望美の躰の芯は熱を帯びた。
「ずるいよ…。だいたい何でそんな甘さのかけらもない性格してるくせに、無駄に声だけ良いのよ…。
そんなの不条理だよ、反則だよ、資源の無駄使いだよ、泰衡さんのばか…」
くたりと力の抜けた躰で。でも、このまますんなり言う通りになるのも悔しくて。
唯一思い通りになる口だけを忙しく動かして、拗ねたように呟く望美に、喉を振るわせるようにして男が笑う。
「それほどまでに、我が声音をお気に召していただけるとは光栄」
「…人の話聞く気ないでしょ、この不条理男」
涙目で睨んでみても、男の笑みを一層深めるだけで。
精一杯の憎まれ口に返されたのは、耳に直接注ぎ込まれる媚薬と一層の激しさを増した手の動き。
パサリと音を立てて、とうに肌蹴きっていた衣が望美の肩から滑り落ちる。
しっとりと汗ばみ、薄紅色に鮮やかに上気した肌はもう何の冷気も感じない―――
目を開くとそこは褥の中だった。
「あれ…? 夢…じゃないよね?」
素肌を見られる気恥ずかしさには未だ慣れないものの、事後の気だるい、だが決して不快ではないこの感覚は望美の中では既に馴染みのものとなりつつある。
それに…。
錦で縁取りされた、真綿のたっぷりと入った平絹の衾(ふすま)を少しだけ捲って確認し、頬を染める。
(…やっぱり着物着てないや…)
自分で移動した覚えはないから、きっと意識が落ちた後、泰衡が運んでくれたのだろう。
それはいいが、このままだと朝、寝床から出る時に恥ずかしい。
望美は自分に回された男の腕を起こさぬようにそっと外すと、褥の中から抜け出した。
傍らに簡単に袖だたみにされていた夜着を手早く身に纏い、ついでに、そのまま足音を忍ばせて帳台の端まで行くと、そっとそのとばりを引き上げる。
部屋の隅で朧げな光を放つ灯台に目をやる。
高灯台の油の減り具合から見て、あれからゆうに三時間は経っていると考えて間違いないだろう。
まだ夜は明けていないけれど、日を跨いでることは確実である。
(ってことはアレで年越しちゃったんだ…)
かあぁっと頬が熱くなる。
でも――
好きな人の腕の中で新年を迎えたと思えば、それはそれで素敵な一年のスタート、なのかも知れない。
(うん、きっとそうだよ)
そんなことを考えながら、熱く火照る頬とは裏腹にそろそろ冷えてきた躰を再び泰衡の傍らに滑り込ませると望美はふふっと微笑んだ。
規則正しく寝息を立てている男の端整な顔を見つめる。
「泰衡さん、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
小さな声で囁くとそっとその唇に口付けを落とす。
そのまま定位置に身を横たえると、眠っているというのに男の腕がまるで条件反射のように、すっぽりと望美の躰を包み込む。
いつの間にかそれが当たり前になっている――そんな彼の無意識の仕草が嬉しくて、とても愛しくて、望美は零れるような微笑を浮かべるとゆっくりと目を閉じた。
5周年企画アンケ のリクにあった囁き泰衡でございますv鳥海エロボイス万歳v(笑)