さくり、と雪を踏む音に望美は振り返って微笑んだ。
「――こんなところにいたのか。宴の途中で急に姿が見えなくなるから…」
心配した、とは決して言わない人。 だが、こんな雪の積もった庭の外れまで自ら捜しに来てくれたその行動から、彼が呑み込んだ言の葉を察した望美は申し訳なさと嬉しさでないまぜの気持ちに満たされる。
「ごめんなさい。ちょっと酔っちゃったみたいだから、風に当たりたいな〜って思って…。
忠衡さん、張り切ってついでくれるのは嬉しいんだけど…」
小さく苦笑する。九郎が昔平泉に滞在していた頃から、彼に懐いていたという活発で武芸を好む忠衡は、九郎の妹弟子である望美には初顔合わせの時から興味津々で。
懇願されて一度手合わせして以来この年上の義弟はすっかり『義姉上、義姉上』と望美のことを慕ってくれている。
「嘘つけ」
すっと泰衡の手が伸びて望美の頬を掠めた。
「あ…」
その長くしなやかな指に透明な雫が宿っているのを見て、望美は慌ててゴシゴシと頬を擦り、拭い残していた涙の痕を消したが、もう遅い。
二人の間に気まずい沈黙が落ちる。
望美は物問いたげな泰衡の視線を避けるように、先ほどまで見ていた池の方に目を彷徨わせた。
暖かい季節には龍頭鷁首の舟を浮かべ、舟遊びを楽しむこの池も、今は分厚い氷が張り、中島に作られた築山にも、朱塗りの反橋にも、厚く雪が積もっている。
風に乗り、宴を楽しむ人々のざわめきと楽の音が微かに聞こえてくる。
皆、今頃は楽しげに新年を言祝いでいるに違いない。
ここ伽羅御所で開かれている新年の宴に望美も総領の正室として、彼と共に参加していた。
柳ノ御所で元日に御館や次期当主である総領の泰衡が、主だった家臣らからの賀を受ける公的なものとは違い、本日の宴は藤原の一族だけの内輪のものだったが、普段はそれぞれの館を構えている泰衡の兄弟たちや津軽を治めている秀衡の弟の秀栄(ひでひさ)とその子ら、また忠衡の妻の父であり、代々奥州藤原氏に仕え、秀郷流の流れを汲み、遠縁にも連なる佐藤基治を始めとする信夫郡の佐藤の者たちも大鳥城より訪れ、宴は大層賑やかなものとなっていた。
望美がそろそろ沈黙に耐えきれなくなってきた頃。
それまで腕を組み、凝っと彼女に視線を注いでいた泰衡が口を開いた。
「……後悔、しているか? 俺と添うてこの地に残ったこと…」
思ってもみなかったことを言われ、うなだれていた望美は弾かれたように顔を上げた。
「ち、違います! そうじゃなくて…ただ……」
「ただ?」
唇を噛む望美に彼が先を促す
(どうしよう…?)
望美は暫し逡巡した。これ以上心配かけたくないから、出来れば涙のわけなんて言いたくはなかった。
だが、何も説明せずに誤魔化し通せるような甘い相手ではないということは、これまでの付き合いで充分承知している。
増してあんな疑念を抱かれてるとしたら、尚更だ。ならば…。
「―――お義父さんとお義母さんってとっても仲が良いんですね」
にこりと笑顔を作ってそう言うと唐突な話題の転換に泰衡の眉が上がる。
だが、何か意図あってのものと察したのだろう、何も問うことなく、そのまま話を合わせてくれる。
「ああ、親子ほども年齢(とし)が離れておいでだからな。可愛くてしょうがないらしい。
そのせいか母上はいつまでたっても、少女のようなところがお有りで…。
母と共に移ってきた老女房らも、いまだにしづはた姫などど幼名で呼んで甘やかすのだから、無邪気と言えば聞こえはいいが、些か御館の北の方としての落ち着きが足らぬ。
――まったく困ったお方だ」
溜め息を吐く泰衡に望美はふふっと笑った。
「まあまあ。第一お義母さんで落ち着きがなかったら、私なんかどうなっちゃうんですか?
人の妻のこと言えた立場か?って泰衡さんに突っ込む人が山のようにいそうですよ」
くすくす笑う望美に泰衡も口端を上げる。
「確かに、それは一理あるな」
「でしょ。って少しは否定してくださいよ、もー」
「事実なのだから仕方ない」
相変わらずにべも無い泰衡に、またすぐそういうこと言うんだから、と一応口を尖らせて見せるが、本気で怒っているわけではなかった。
「でも、ほんと、お義母さんって綺麗で可愛らしい方ですよね。
少し落ち着いてないぐらいの方が私には親しみが持てていいな。
最初お会いした時はあまりにお若く見えるので、泰衡さんのお姉さんかと思いましたけど…」
「世辞なら、本人の前で言わねば意味があるまい」
「もー、お世辞じゃないですってば」
揶揄するような泰衡の口調に望美が軽く頬を膨らませる。
「この着物だってそれは親身になって選んでくださって…」
「ああ、その装束は母上のお見立てだったな…」
言って一歩後ろに下がると、泰衡は改めて望美の上から下まで視線を走らせた。
その口から誉め言葉が出てくることはなかったが、男の切れの長い瞳が満足げに僅かに細められているのを認めて、望美の頬は熱くなる。
普段は動きやすさ重視で町娘のような小袖姿で通している望美だが、今日は祝いの席と言うこともあり、珍しく小袿を纏っていた。
紅梅の匂に衣を幾枚も重ねた上に、萌黄の表着(うわぎ)と蘇芳の小袿を纏った今日の装いは先ほどの彼の言葉通り、義母が選んでくれたもの。
紅の袴は本来は長袴らしいが、さすがにそれでは動き難いので足首までの切袴で勘弁してもらった。
そう言う泰衡とて今日は晴れの場ゆえいつもの黒衣ではなく、公家の略装であり、武家の正装である狩衣姿である。
その姿を惚れ惚れと眺めながら、望美は口許を綻ばせた。
こちらは若妻らしく義母や周囲の女房のアドヴァイスを受けながら、望美が選ばせてもらっていた。
唐櫃に入った沢山の装束の中から、女同士談笑しつつ、彼に似合いそうな着物をあれこれ選定するのはとても楽しかった。
「お義母さんには…ううん、お二人には実の娘のようによくしていただいて、本当に感謝してるんです。
お二人の睦まじい姿は私の憧れでもありますし…。でも、ね…仲の良いお二人を見てたら、ちょっと思い出しちゃって…。
…うちの両親のこと…」
「…………」
「おかしいですよねー。いつもは全然そんなことないのに…。これもちょっとお酒が入ってるせいかなー、なんて…」
軽い調子で付け足すと、望美はえへっと笑ってみせた。
「馬鹿ですよねー。今更そんなこと思ったってしょうがないのに…。
――さあ、体も冷えてきたことだし、そろそろ戻りますか。あまり長く席を空けると皆が心配しちゃう」
つとめて明るい声でそう言うと望美は先に立って歩き出した。
寝殿の方に歩む望美の背後から深く息を吐く音が聞こえた。と、思う間もなく不意に腕が掴まれる。
そのまま強い力で引き寄せられて、次の瞬間彼女は泰衡の腕の中にいた。
「や、泰衡さん!?」
「ああ、御自身でおっしゃる通りだ。まったくお前は呆れるほど大馬鹿だな」
苛立たしげに吐き捨てられた言葉に耳を疑う。次の刹那望美はカッと頬に朱を上らせた。
「なっ…そこまで言うことないじゃないですか!
わざわざそんなこと言う為に呼びとめたの? 離してよ! 離してって言ってるでしょ!!」
振りほどこうと望美は懸命にもがいた。だが、男の腕の力は緩まない。
泰衡は暴れる望美を見下ろすと、心底呆れたような溜め息をついた。
「だから、あなたは馬鹿だと言うんだ」
「馬鹿馬鹿言わないでよ! 自分でもわかってるんだから、そんなこ…きゃっ!」
突然硬い胸にぐい、と頭を押しつけられ、戸惑う望美に静かな声が降ってくる。
「―――俺の前では涙をこらえる必要はない」
もがくことも忘れ、望美は大きく目を見開いた。
「な、何を言って…」
声が震える。
「頼むから―――頼んでやるから、もう二度と、そんな今にも涙が零れそうな顔をして笑うな」
「あ…」
望美の瞳からつーっと一筋の涙が流れた。
「…そっか。私、上手に笑えてなかったんだ…」
気が抜けたようにぽつりと呟くと目の前の胸に頭をもたせかけ、目を閉じた。
「ああ、下手過ぎて見るにたえん」
苦い笑いと共に紡がれた男の言葉に、ひどいなぁ、とくすくすと望美もほろ苦く笑う。
望美の長い髪に男が指を絡める。何度も梳いてくれるその感触が無性に心地良くて切なくなる。
「――どんなお方だ?」
「え?」
「あなたの親御はどんなお方だ、と問うている」
「…私の、両親は……」
閉じた瞼の裏にふわりと懐かしい両親の姿が浮かぶ。
「私のお父さんとお母さんは…そんなに年齢差はないけど、でも、やっぱりとっても仲が良くて…、お母さんはいつも長い…」
誕生日のこと、七五三の時のこと、高校の入学式の日のこと。
小さな頃からの思い出が次々と浮かんでは消えてゆく。
幼い頃はよく母に髪を結ってもらった。
父に念願の白い犬を買ってもらった日は、母と二人で一日中頭を絞って名前を考えた。
お隣のスミレおばあちゃんが亡くなった時は泣きじゃくる望美を父が言葉少なに一生懸命慰めてくれて――
思い出の中の二人が望美に微笑みかける。
もう二度と会うことはない、惜しみない愛情を注いで望美を育ててくれた、善良で優しい、大好きだった人たち――
「…な、長い髪をアップに…纏めていて…犬が…大好きで……っ…」
泰衡の衣を握りしめていた望美の指に力がこもる。
「…ふぇ……おと…う、さ…おかあ…さ…」
堰を切ったように溢れ出した大粒の涙が望美の頬を濡らしていく。
望美は泰衡の胸に顔を埋めると声を上げ、子供のように泣きじゃくった。
そんな望美の背を宥めるように、あやすように、ゆっくりと撫で続ける男の手は温かくて、とても優しかった。
「…落ち着いたか?」
ひとしきり泣いて漸く顔を上げた望美に泰衡が静かに問うた。
「う、うん」
思いっきり泣いて気持ちはすっきりしていたが、我に返ってみれば子供のように盛大に泣きじゃくってしまった自分が恥ずかしかった。
「あの…」
「ん?」
「ありがとうございます」
頬を紅潮させて言う望美に彼はフッと笑った。
「礼はいい。家族、だからな」
その言葉がまた望美の涙腺を緩ませる。
「また泣くのか?」
揶揄するように言う泰衡に、望美は小さく笑うと首を振る。
「あれだけ泣いたら、もう涙なんか残ってませんよーだ」
潤んだ瞳を指先で拭うと、望美は晴れやかに微笑んだ。
「――ねぇ、泰衡さん」
「何だ?」
「私、後悔、なんてしてないよ」
「…?」
訝しげな目を向ける泰衡に、さっきの答え、と言うと、彼は思い出したように、ああ、とだけ言った。
「そりゃ、これからも、時々今日みたいに思い出して泣くことはあるかもしれないけど。
でも、それは私を育ててくれた両親のことだもの。忘れるなんて出来ません。でも、ね…」
そこで望美はいったん言葉を切ると顔を上げて、この皮肉屋で気難しくて、愛想がなくてとても優しい、今も彼女が恋し続けている男の顔を見つめた。
「でもね、あの時あなたと別れて元の世界に帰っていたら、絶対、時々なんてものじゃすまない、毎日毎日ずっと、この目も、胸も潰れるほど、泣き暮らしていたって言い切る自信あるもの」
「……随分とつまらぬことに自信を持つ…」
そうかも、と望美はふふっと笑った。
「だから、私、この世界に…この平泉の地に残ってよかった。
藤原の一族に加えてもらえてよかった。あなたと家族になれてよかったって心から思ってます。
だって、こうしてあなたの傍にあることが私の幸せだもの」
にっこりと笑う。そんな望美に泰衡は、後悔していなければそれでいい、と早口に呟くと、くるりと背を向けた。
「落ち着いたなら、戻るぞ」
振り返りもせずに一方的に告げると、そのまますたすたと歩き始める。
「ええっ! ちょっと待ってくださ…きゃあっ!」
慌てて泰衡の後を追おうとして踏み出した望美の草履が雪面を滑った。
ぐらりと傾ぐ躰に悲鳴を上げる。
「まったくお前という奴は次から次へと…」
望美を抱きとめた腕の持ち主がホッとしたように大きく息を吐き出した。
「このそそっかしさ、やはり俺などよりあなたの方がよほど母上とは親子のようだ」
真顔でそんなことを言う泰衡に望美は頬を膨らませた。
「だって、泰衡さんが急に一人で先に行っちゃおうとするから…」
唇を尖らせる望美に泰衡はやれやれ、とでも言いたげな息を吐く。
「ほら」
いかにも面倒くさそうに差し出された手と眉間に皺を刻んだ男の顔を交互に見比べて、望美はぱちぱちと大きな目をしばたたいた。
「いいんですか?」
「とは?」
「だって、私がいつも外でくっ付こうとすると泰衡さん、嫌がるから…」
「…また転ばれてはかなわんからな」
微苦笑を浮かべて呟かれたその言葉が最後まで終わらぬうちに、望美は歓声を上げると、満面の笑みで泰衡の手に自分の手を重ねた。
望美の手をしっかりと包み込んで男がゆっくりと歩き出す。
その手は大きくて、とても温かかった。
貴方と私の10のお題「01.貴方の傍に居ることが私の幸せ」(蒼月理求 お題サイド)