「日野君、君の人参を私の皿に入れるのはやめたまえ」
久しぶりに休みが取れたという吉羅に呼び出され、いつものように『暇つぶし』という名のデートで食事に来ていた香穂子は、吉羅の言葉に自分の皿と吉羅の皿の間をせっせっと往復させていたフォークを止め、顔を上げた。
「だって、残したら勿体無いでしょう?」
当たり前のようなごくしぜ〜んな調子で。バリバリの作り笑顔まで付けて香穂子は言ってみたが、やはり誤魔化されてはくれないようだ。
「そう思うなら、人に押し付けたりせず、ちゃんと食べればいいだろう」
案の定にこりともせずに、至極真っ当な返事が返ってきた。
「だって、本当に苦手なんですよ〜、ニンジン…」
フォークを置いた手を落ちつかなげにそわそわと組み合わせると、香穂子は上目遣いに吉羅を見上げた。
「この間もそんなことを言って、トマトを残していたが…。君は意外と嫌いな食べ物が多そうだね」
「そんなことないですよ。食べれないのは、えっとニンジンでしょ、トマトでしょ、それから……」
指折り数えながら、香穂子が10ばかり食物の名前をあげると、男の眉間に皺が寄る。
「それがそんなことない、という数か。まったく…、君は子どもかね?」
「またすぐそうやって子ども扱いするんだから…」
呆れたような溜め息をつく吉羅に、香穂子はぷうと頬を膨らませた。
「好き嫌いはよくないな」
「――そういう吉羅さんは嫌いな食べ物ってないんですか?」
吉羅だって一応人間なんだから、嫌いな食べ物のひとつやふたつあるだろうと、悪気無く結構酷いことを考えながら、それを反論の糸口にしようと訊いた香穂子だったが。
「ないこともないが、栄養バランスを考えて何でも偏りなく摂るように心がけているよ」
返ってきた文句のつけようのない答えに、口を尖らせた。
「ふーんだ。吉羅さん、健康オタクですもんね。朝は茶がゆの人だし…。あー、はいはいヘルシーヘルシー」
不貞腐れて、そんな嫌味を言う香穂子に、吉羅はムッと顔を顰めた。
「相変わらず失礼だな、君は」
「だって…って、あー! ニンジン、私の方に戻さないでくださいよー」
「君の人参なんだから当然だろう。さ、食べたまえ。今日は残したら許さないよ」
「えー!」
有無を言わさぬ吉羅の口調に、香穂子の顔はまるで無理矢理苦い薬を飲まされた子どものような渋い表情になる。
小さくうう、と唸りながら、親のカタキを見るような恨めしげな眼差しでニンジンを睨む香穂子を吉羅は少しの間、面白そうに眺めていたが、やがて小さく息を吐くと口を開いた。
「その代わり、それを全部食べたら、コースのデザートは私の分も君にあげてもいい」
「ほんとですか!?」
いかにも仕方なさそうな吉羅の口調とは対照的に、途端に香穂子の顔がぱあぁっと輝く。
「ああ」
「じゃあ、ちょっと頑張っちゃおっかな〜」
ニッコリ笑って、ニンジンのグラッセにフォークを突き刺す香穂子に、吉羅がクスリと小さく笑う。
その笑みに、香穂子は、ん? と首を傾げた。
どうも何か引っかかるような気がしたが、それをきちんと追求する前に、隣のテーブルに運ばれてきたツヤツヤと輝くフルーツのぎっしり乗った美味しそうなタルトに目を奪われて、ま、いいかとそのまま忘れてしまった。
吉羅に上手く乗せられて、色々苦手な物を食べさせられてるうちに、いつの間にかすっかり偏食が治っていることに、香穂子が気づいたのはそれから随分と後の話。
厳しいんだか、甘いんだか(笑)