始まりの聖夜
 応接室のソファに深々と身を沈ませ、分厚く束ねられた財務書類に目を落としていた吉羅は顔を上げるとゆっくりと息を吐き出した。
 音楽科・普通科分割のプランの凍結を決めた以上、理事会の狸どもを納得させるだけの代替案を奴らに早急に提示せねばなるまい。
 問題は相変わらず山積し、暫くは今まで以上の多忙を強いられることになるのは目に見えていたが、しかし、下した決断に悔いはなかった。

「――音楽、か」

 零れた呟きはこれで二度目。
 あれから、いくばくかの時が流れていたが、耳は同じ旋律を何度もリフレインし、胸は、長らく遠ざかっていた良質の演奏を聴いた後の心地良い高揚感で久しぶりに満たされていた。
 高く組み上げた脚の上に置かれていた書類の束を、ばさりとガラス張りのテーブルに放り投げると冷めたコーヒーを一口啜る。

 正直彼らがここまでやるとは思ってもいなかった。ことにコンクール経験があるとは言え、アンサンブルには素人同然の普通科の生徒でありながら、音楽科・普通科混成の癖の強いメンバーを一つに纏め上げ、今回の学外コンサートを成功に導いたなかなか骨のありそうなあの―――
 フッと彼が微かに口許を綻ばせたその時。低くドアをノックする音が夜のしじまに響いた。
 彼は眉間に軽く皺を刻んだ。反射的に目を落とした腕時計の針は既に九時を回っている。
 警備の者だろうか…? こんな時間、増して終業式も済んだクリスマス・イヴの宵である。学院内にそうそう残っている人間がいるわけもない。
 そんな考えを巡らせていて、僅かにいらえが遅れた吉羅が口を開く前に、カチャリと音を立ててドアが開いた。
 細く開かれたドアから滑り込んできた小柄な人影に、彼の切れの長い瞳が見開かれた。

「君は…!」

「こ、こんばんは、吉羅理事長…。えーと、あっ、メリー・クリスマス」

 アップに纏めた艶やかな髪やコートの肩に薄っすらと雪を積もらせて。えへへと笑う日野を彼は腕を組み、厳しい顔でねめつけた。

「メリー・クリスマスじゃないだろう。こんな時間に一体何をしに来」

「ご、ごめんなさい、お説教なら後でちゃんと聞くから、取り敢えず座らせて…」

「は?」

 ください、と、消え入りそうな声で続けると唖然とする吉羅の返答も待たずに、少女はよろよろと倒れ込むように、彼の向かいのソファに腰を下ろした。
 片方の足を引き摺るようにして歩くその姿に、漸く彼はいつも健康そうに輝いていた少女の顔が幾分青ざめていることに気がついた。

「――その足はどうした?」

「これは…」

 きつく眉根を寄せ、強い口調で問う吉羅に香穂子は怯んだ。
 普通怪我した女の子に様子を尋ねる時って、もっと優しく訊くもんじゃない?
 これではまるで尋問でもされているかのようである。

「これは慣れないヒールの上に、この雪で足を滑らせて…」

「終演後も、いつまでも、そんなドレス姿でフラフラしているからだろう」

 吉羅のいきなりの咎めだて口調に、香穂子はムッと顔を顰めた。

「いつもはすぐ着替えてます! でも、今日はクリスマス・イブで街行く人も皆お洒落してるし、それに打ち上げパーティもあったから、その流れで…」

「お洒落も結構だが、それで転んでいれば世話はないな」

「転んだわけじゃありません! あ、いえ、素直に転べばまだ膝を擦りむくくらいで済んだのかもしれないんですけど…。
でも、ヴァイオリンを雪の上に落としそうになったから…、滑りかけたねじれた状態のまま無理矢理ダンッて踏みとどまったら、足首がグキッて…、あ…」

 やばい、余計なことまで言い過ぎた。そう思った時だった。

「それでは転ぶよりなお悪いじゃないか」

 案の定すかさず吉羅に突っ込まれて、香穂子はガックリとうなだれた。
 暫し気まずい沈黙が流れる。
 俯いて所在なげに、ひたすら自分の膝を睨んでいた香穂子は、はぁ、という大きな溜め息に、さぞや呆れられたんだろうなぁと、おそるおそる顔を上げた。
 しかし、男の表情は彼女の予想に反して、意外にも穏やかだった。

「…だが、楽器を守っての怪我、か…」

 ホッとすると同時に、その表情を不思議に思っていた香穂子は、ぽつりと呟かれた男の言葉に、数ヶ月前の出来事を思い出し、納得した。
 そっか、そういえばこの人って、初めて会った時もぶつかった私よりも、楽器の心配してた人だった。
 何せまず『君、楽器は無事か?』だもの。あの反応はどう見たって音楽ばか仲間である。
 音楽の道は捨てたとか言っていたが、やはり創立者一族の血は争えないというべきだろうか。
 リリには突き放したこと言ってたけど、あれで音楽に対して何の思い入れもないなんて有り得ない。

「ええ、『人間の怪我は簡単に治りますけど、楽器はそうはいきません』、から」

 クスリと笑って香穂子が言うと、吉羅は驚いたように軽く目を瞠った。

「そうか。あれは、君だったか」

 はい、と微笑む香穂子に吉羅も口端を上げる。

「記憶力の良いお嬢さんだ。ちょっと待っていたまえ」

「え、あの理事ちょ………。あ、行っちゃった…」

 香穂子が問い終わる前に、長身の後ろ姿はドアの外へと消えていた。














「取り敢えず、まずそのストッキングを脱ぐ必要があるな」

「なっ…!」

 10分ほど経った頃だろうか小さな紙袋を手に戻って来た吉羅に開口一番にそう言われ、香穂子は絶句し、固まった。

「なな何を言って…、わ、私は、そんなつもりで来たわけじゃ…っ!」

「は? 君は何を言っているのかね?」

 かあぁっと頬を紅潮させて、しどろもどろにぶつぶつ言う香穂子を吉羅は束の間眉を寄せて、訝しげに眺めていたが、やがて、ああ、と一言呟くと皮肉げに唇を歪めた。

「君は何か思い違いをしているようだ」

「え?」

 酷く冷ややかな声音で告げた後、吉羅は紙袋の中から取り出した物を無言で香穂子の目の前に突きつけた。

「あ…、湿布…」

「人間の怪我は簡単に治るとはいえ、それにはしかるべき処置が必要だ。
こんなもの、ストッキングの上から貼っても意味がないだろう」

「すみません…」

 わざわざ保健室から持ってきてくれたに違いない。
 申し訳なさと恥ずかしさに頬を火照らせていた香穂子は、しかし次の瞬間怒りに頬を染めることとなった。

「まったく…。安心したまえ、あいにく私は君のような色香の足りないお嬢さんは趣味じゃない」

「わ、私だって理事長みたいなおじさん、趣味じゃありません!」

 言った瞬間しまった、と香穂子は内心慌てたが、もう遅かった。
 売り言葉に買い言葉とはまさにこのことである。

(わ、私ってば仮にも理事長に何てことを…)

「ほう、意見が一致したようで何よりだ」

 言葉こそ淡々としているが、明らかにムッと顔を強張らせている様子の吉羅に、香穂子の背中を嫌な汗が流れていく。

「とにかく、さっさとしたまえ。私は終わるまで部屋の外に出ている。――終わったら声をかけてくれ」

「は、はい」

 じろりと香穂子を一瞥すると、吉羅は再び足早に室外へと姿を消した。










「しかし、これをあの理事長がねぇ…」

 ぽつんと一人になった部屋で、突きつけられた時にそのまま受け取っていた紙袋をまじまじと見つめながら、香穂子は呟いた。
 香穂子が転びかけたと言ったからかもしれないが、袋の中には湿布以外にも包帯や絆創膏、消毒薬等一応簡単な外傷治療に必要な一通りの物が入っていた。
 一見冷たそうに見えるけど、本当はいい人なのかもしれない。

(旧知の仲である金澤先生には結構親切だしなー。それにしても、15年の付き合いって凄いよね)

 自分が生きてきた年数と殆ど変わらない頃からの付き合いなんて、まだ17歳の香穂子には全く実感が湧かない。

(15年前、か…。18歳の金澤先生って何となく想像付くけど、16歳の理事長ってどんな感じだったんだろう?
本人に訊いても絶対答えてくれないだろうから、今度金澤先生かリリに訊いてみようかな?うわ、理事長嫌がりそ〜。
…あれ、でも力が戻ったから、また、もうすぐリリ見えなくなっちゃうのかな?)

 そんなことをあれこれ考えながらクスクス笑っていた香穂子は、不意に聞こえてきたノックの音と、日野君、まだかね? という苛立たしげな吉羅の声でハッと我に返った。

(いっけない! てか今の笑い声聞かれた!?)

 下が肩や背中が剥き出しのドレス一枚なので、まだコート姿だった香穂子には暑いぐらいに空調が効いた室内と違い、雪の日に底冷えのする廊下で長く待たされてる身としては――しかも、その待たせてる当の本人が暖かい室内でケラケラ笑っていたら、苛立ちもするだろう。

「はーい、後ちょっとでーす!」

 香穂子は返事をしながら、慌ててコートを脱ぐと手に取った。
 この応接室には電話台と窓との間に来客用のコート掛けがあったが、ゆっくりと立ち上がってみた香穂子は立ち上がった瞬間、ズキリと走った痛みに再び座り込んでしまった。
 座っていると結構ラクなので、痛みが収まってきていたような気がしたが、やはり少しでも体重がかかるとダメらしい。
 コートはソファの背に引っ掛けることにして、手早くストッキングを脱ぐと小さく纏めてバッグの中の荷物の下の方に押し込んだ。

「すみません、お待たせしました!」

ガチャリと音を立ててドアを開け、入ってきた吉羅は香穂子の姿を見るなり、形の良い眉をひそめた。

「何をやっていたのかね、君は?」

「え?」

「まだ全然手当てできてないじゃないか」

「あ、ああっ!」

 まずい、慌てていたせいで、つい、ストッキングを脱いだだけで声をかけてしまった。

「ええと、あのう…」

 何をしていたかと訊かれても、まさかあなたの高校時代妄想してたんです、とはちょっと言えない。

「あの、その…」

 口ごもる香穂子を、吉羅は暫しうんざりしたように眺めていたが、やがて諦めたような溜め息をつくと口を開いた。

「もう、いいから、それを寄越したまえ」

「あ、はい」

 吉羅の目線から薬の紙袋のことと察し、慌てて手に取った香穂子の手から彼は引ったくるように、それを奪うと膝をついた。

「え、あの…、私、自分で…」

 冬海笙子並みに、おずおずと言いかけた香穂子を吉羅がじろりと睨む。
 君にまかせていたら、夜が明けてしまう、と冷たく言い切られ、香穂子は呻いた。
 先ほどの今ではさすがに反論はできない。

(うう…)

「…こちらだな。腫れている」

 男の手がそっと香穂子の痛めた方の足首に触れた。

「あ……」

 腫れて熱を持った肌に男のひんやりとした指先が心地良い。

(気持ちいい…)

 思わずほぅっと溜め息を零した香穂子だったが、次の瞬間。

「痛ぁっ!」

 怪我した箇所をぐいと押され、彼女は悲鳴を上げた。

「何するんですか!?」

「…ああ、これは失敬。骨に異常がないか確かめただけだ。そう大声を出すもんじゃない」

「だって、凄く痛かったですよ、今。さっきの仕返しされたのかと思った…」

 涙の滲む目で恨めしげに睨むと、吉羅は心外だというように顔を顰めた。

「大袈裟な…。私はそんなに力を入れてはいない。
――骨に異常はないようだ。やはりただの捻挫だろう」

 言いながら、ビニールフィルムを剥がすと湿布をペタリと香穂子の足首に貼り付けた。

「…靴擦れもできてるな。ついでだ」

「あ…」

 香穂子の足を軽く持ち上げると、吉羅はそっとパンプスを脱がせた。
 片膝をついていた彼は浮かせていた方の膝に香穂子の素足を乗せると、擦れて水泡になっていた数箇所に順に消毒薬を振り掛け、絆創膏を貼っていく。
 男の指は酷く冷たいのに、微かに触れられている部分の肌が何故か熱を帯びたように熱い。
 黙々と、だが手際良く傷を処置していく吉羅を香穂子は頬を染め、ぼんやりと見つめていた。





「――終了だ」

 元通り香穂子に靴を履かせた後、低く告げられた声にハッとなる。

「あ、ありがとうございます」

 慌てて礼を言う香穂子に、自分の席に戻りながら、いや、と呟くと吉羅は微かに唇を歪めた。

「これで休憩所代わりに、ここに駆け込んだ甲斐があったというものだな」

 吉羅の皮肉げな言葉に、ぱちぱちと香穂子は大きな瞳を瞬かせた。

「休憩所?」

「足を捻ったから、ここに来たのだろう?
もっとも、たまたま私がいたからいいようなものの、いなければ今頃痛む足を引きずって余計な距離を往復するはめになっていただろうがな」

「違います。確かに足を捻ったのは学院の前ですけど、私はその前からここに向かっていました。
それに理事長がいらっしゃるのは知っていました。リリが教えてくれたんです。理事長は学院に戻ってお仕事してるって…」

「…君が今夜ここに来たのは、またもやアルジェント・リリの差し金だと」

 ワントーン低くなった吉羅の声に香穂子は慌てて首を振る。

「それも違います。足を痛めた時に大声を上げてしまった私を心配して様子を見に来てくれたリリが魔法でここのドアの前に送ってくれたんですけど、でも、それは私がここに来たいって言ったからで、リリが勧めたわけじゃないし…。…うーん、何て言えばいいのかな…?」

 口許に手を当てて、考え込む香穂子を吉羅はわけがわからないというように見つめた。

「では、君は一体何をしに来たのかね? 大体何故この時間に?
コンサートが終わったのはもっと前だろう? ――いや、先ほど打ち上げパーティがどうとか言っていたか…」

「はい。天羽ちゃんが…、あっ、天羽ちゃんって言うのはいつも私と一緒にいた2年生の」

「こうるさい報道部の女生徒だろう」

 うんざりしたように吉羅が言う。どうやらしつこく自分のことを嗅ぎ回っていた天羽に、あまり良い印象はないらしい、と見て香穂子は苦笑する。

「あはは、まあまあ、そうおっしゃらずに。――その天羽ちゃんがコンサート終了後に、打ち上げと王崎先輩の祝賀会を兼ねて、パーティを開いてくれたんです、今日はクリスマス・イヴでもありますし。
ま、パーティって言っても、ノンアルコールのシャンパンで乾杯して、お菓子を摘むぐらいのささやかなものなんですけど」

 でも、楽しかったー、とふふっと笑う香穂子を吉羅は無表情で促す。

「それで?」

「で、それは一時間くらいで終わったんですけど、お腹も物足りないし、喋り足りなかったから、都合がつく人は二次会に行くことになって…。
あ、金澤先生は『年寄りは疲れたから、もう帰る。お前さんたちもあまり遅くなるなよー』って言って、一次会で帰っちゃったんですけど」

「いかにも金澤さんが言いそうなことだな」

 微かに口許を緩めた吉羅に、ですよね、と香穂子もにっこりと笑う。

「それで、ですね、二次会にちょっとだけ顔出して、その後ここに来たからこの時間になったと言うわけです」

「時間の経過については理解したが、肝心のここに来た理由についてはまだ述べてないようだが?」

「う。それは…やっぱり…、理事長と話たかったから、なのかな? 多分…」

 何故来てしまったのか、正直自分でもよくわかっていなかったので、自然、その答えは歯切れの悪いものとなる。

「多分?」

 眉尻を下げ、困ったようにぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ香穂子に、吉羅の眉間に皺が寄る。

「疑問形で答えられても、私には返答致しかねるがね。
それに、私を楽しませるような話が君にできるとは思えない、と以前言ったはずだが?」

 だって、とキッと香穂子が顔を上げる。

「コンサート前に話そうとしたら、理事長、今は演奏の仕上がりを気にするべきではないのかね? って言って行っちゃったじゃないですか! だから終わった後、と思っていたら、帰りは帰りで、あんな手紙一つでアンコール前にさっさと帰っちゃうし…」

 唇を尖らす香穂子に、吉羅は冷笑を浮かべた。

「ほう、あの手紙では不満だったと?」

「不満、ってわけじゃないですけど…。あ、手紙と言えば、学院分割のプランを凍結してくださったそうで、ありがとうございました」

「――私が礼を言われるようなことじゃない。見事課題を達成し、君たち自身の手で掴んだ勝利だ。
…あそこまでやって認めないというのは、さすがに公平ではないからな」

「でも…」

「フッ、それでは気が済まないといった顔だな。ならば…、そう、だな、ならばヴァイオリンでも弾いてもらおうか」

「いいですよ」

 途端に香穂子はニコニコと嬉しげな笑みを浮かべた。

「曲は今日も演奏した」

「『ジュ・トゥ・ヴ』ですよね?」

「ああ」

「理事長のお姉さんの演奏にはまだまだ敵わないと思いますけど、でも、心をこめて奏でさせていただきますね」

「いや、甘やかさではまだまだ遠く及ばないが、清らかさなら君の音色もなかなかのものだった。
今日の三曲は三種全ての曲調を網羅して選曲されていたが、中でも、君は清麗系が得意なようだね」

「わかりますか?」

 緩めてあった弓を張りながら、香穂子が問うと吉羅は静かに頷いた。

「ああ、音が全てを語ってくれる」

 張った弓に松脂を適度に塗りつけると、次に調弦をする。
 肩当てを装着すると、なるべく浅く腰掛けて可能な限り背筋を伸ばして、ヴァイオリンを構えた。
 オーケストラ等では座って演奏する姿も見たことがあるけれど、本番は勿論練習の時ですら常に立って弾いていた香穂子に取って、しかも座っているのがこんな柔らかいソファでは、色々と不都合だったけれど、応接室には他の種類の椅子は見当たらなかったし、まぁ、この足では今回は多少のことには目を瞑ってもらうしかない。
 ちらりと彼の方に目をやる。深くソファの背にもたれ、腕と脚を組んだ吉羅が、軽く頷いたのを機に、香穂子は演奏をスタートさせた。
 最初のメロディが流れた瞬間、微かに男の肩がビクリと揺れた。
 次の瞬間、何かをこらえるように、彼は一度だけきつく目を閉じた。
 ああ、そうか。香穂子の唇から、小さく喘ぐような吐息が零れた。
 以前屋上で見たこの悲しそうな瞳がずっと忘れられなかった。
 この人が何を考えているのかずっと知りたかった。
 リリが学外コンサートの事を言い出した時、引き受ける気になったのは、勿論学院を分割して欲しくないというのが最大の理由だったけれど。
 でも、それだけじゃない。学院のためだけじゃない。リリのためでもない。
 今日どうしても、自分がここに来たかったのは、きっと――

 演奏が終了した。静まりかえった部屋に響く拍手の音はたったの一人分だったけれど、香穂子の胸は満たされていた。
 彼女が楽器を片付け終わるのを見計らったように、男が立ち上がった。

「さあ、もうだいぶ夜も更けたようだ。車で送っていくから支度したまえ」

 コートを肩に引っ掛けるようにして、軽く羽織りながら、吉羅が言う。

「え? 送っていただけるんですか?」

「いくら徒歩圏内とはいえこんな雪の日に、しかもこんな時刻に女生徒を一人で放り出すわけにもゆくまい」

あれ、どうして理事長が自分の家の場所知ってるんだろう? と問いかけようとして思い出す。
金澤と三人で飲みに行った時、自分一人だけ飲んでも、と、ノンアルコールドリンクを頼んだ金澤に合わせ、結局吉羅もアルコールは頼まず、帰りは彼の車で送ってもらっていたことを。

「――第一その足で歩いて帰れるのかね?」

「どうだろう…? 湿布が効いてきたのか座ってると今はあまり痛くはないんですけど…」

 コートに袖を通した後、おそるおそる立ち上がろうとした香穂子は顔を歪めて、再び腰を下ろした。

「おそらく捻挫だろうが、一度病院でちゃんと見てもらった方がいいな」

「はい。あっ、でも、いつも行く病院、もう年末年始のお休みに入っちゃってるかも…。
…あれ、この週末からじゃなくて、休みは27日からだっけ…?」

 首を傾げる香穂子を黙って見ていた吉羅はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。
 一枚抜き取ると裏返し、いかにも高級そうな万年筆で何やらさらさらと書き付けて、香穂子に差し出す。
 受け取った香穂子はそこに書かれていた11桁の数字に視線を落とすと目を丸くした。

(これってまさか理事長のケー番!?)

「もし、君の行きつけの病院が休みに入ってしまっていたら、連絡してくるといい。融通がきく私の知り合いの医師を紹介しよう」

「は、はははい! ありがとうございます!」

「さあ、行くぞ。荷物はこれだけだな。では、そのヴァイオリンケースとバッグを胸に抱えたまえ」

「はい?」

 何でだろうと訝しみつつも言われたとおりにすると、突然躰がふわりと宙に浮いた。
 香穂子は至近距離にある端整で、不機嫌そうな顔を呆然と見つめた。一拍後。

「ききき吉羅理事長っ!」

 香穂子の裏返った声が応接室に響いた。

「何か?」

「何かって…、何かって…、何で私、理事長に抱き上げられてるんですかっ!?」

「では訊くが…、立ち上がれもしないくせに、どうやって君は駐車場まで移動するつもりだったのかね?」

 真っ赤な顔で叫ぶ香穂子を見下ろすと吉羅は馬鹿にしたような笑みを浮かべ、問う。

「それは…、その……」

 はっきり言って何も考えてなかった…。
 俯いて、唇を噛む香穂子の頭上から苦笑混じりの溜め息が降ってくる。

「まったく…、手間のかかるお嬢さんだな、君は」

「…すみません」

「いや、謝ってもらうほどのことでもない。
――それより、そのヴァイオリンケースをしっかり抱えていることに専念したまえ。
君は落ちてもいいが、楽器だけは離すなよ」

「わかってます!」

 やっぱり、楽器>人間かい! 本当にもう、この男は〜〜〜!
 ムッとした顔で叫ぶと香穂子は横抱きにされたまま、ギュッと荷物を抱え直した。
 と、その耳に届いたのはくつくつという押し殺したような笑い声。

「ひどっ! からかったん、ですね…」

 勢い良く顔を上げ、抗議しかけた香穂子だったが、思っても見なかった光景を目にし、その勢いは中途で失速する。
 トクン、と香穂子の心臓が一度大きく跳ねた。

(あ…、笑うと意外と優しそう…)

「…理事長でも(そんなふうに)笑うことってあるんですね…」

しみじみと、悪気無く結構酷いことを呟く香穂子を、吉羅は廊下へと続くドアを開けながら、憮然とした表情で見下ろした。

「…君は、私を一体何だと思っているのかね?」

「えーと、『吉羅暁彦、さん。星奏学院理事長。妖精が見える31歳』」

 にっこり笑って香穂子が言うと、吉羅は歩を進めながら、酷く嫌そうに顔を顰めた。

「………………本当に落としてやってもいいんだが?」

「わー、嘘嘘、もう言いませんってば。だから落としちゃ嫌ですー」

 どうやらささやかな意趣返しは成功したらしい。

(三十路で妖精が見えるのって、そんなに嫌なものかな? そりゃ人には言えないだろーけどさ)

 苦虫を噛み潰したかのような吉羅の表情がおかしくて、満足した香穂子はクスクス笑いながら、ことんと彼の胸に頭を預けた。
 そのまま顔を傾けて、頬をスーツの胸元に押し当てる。

(あったかい…)

 たったこれだけのことなのに、この無性に湧き上がる幸福感は何なのだろう。
 いつまでも、車に着かなければいいと思ってしまうほどの…。

「…日野君?」

 更に頬を強く押し付け、目を閉じると、微かに戸惑ったような吉羅の声が聞こえた。

「寒いんです。廊下に出たから」

「……そうか」

 男の返事はそれだけだったけれど、彼女の背を抱く腕の力が僅かに強まったような気がして、香穂子はふわりと微笑んだ。




update : 07.3.27
吉羅理事長の「お嬢さん」呼びが好きですv
理事長って何だかんだいっていい人だと思う。

ところでこの人、何で理事長に就任した後もずっと応接室にいるんでしょう?(笑)
コー●ーさーん、追加ディスク(出るよね?)では、理事長室の背景画も作ってあげてー(笑)
いや、その前にまずEDを(笑)





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