金色の絆
 ――細く、空気を震わせて、最後の音がホールの静寂に融けて消えた。
 かなではヴァイオリンを下ろすと、たったひとりの観客に向かい、ペコリと頭を下げた。

「ヴァイオリンがよく歌っていたな。…いい演奏だった…」

「冥加さん……」

 拍手と共に、低く紡がれた言葉に胸が熱くなる。
 数日前の練習時にも、かなでは初めて冥加から拍手をもらった。
 その時は酷く驚いた反応をしてしまい、まともな演奏を聞けば評価はする、と彼を憮然とさせてしまったものであるが。本人が抜群の技術力と高い表現力を持つだけあって冥加の評価基準はとても厳しい。
 その彼の惜しみない賞賛の言葉。

――今度こそ、この人に恥じない演奏がしたい

 その想いを胸に、ここまで頑張ってきたかなでに取って、それは何よりの言葉だった。
 この夏の全てを賭けて挑んだ全国大会は今日、星奏学院の勝利で幕を閉じた。
 終了後、行われる祝賀会の会場へニアと向かう途中、どこからか聞こえてきたヴァイオリンの調べ。
 その甘く優しいメロディに導かれるように、かなではこのホールに辿り着き、彼に乞われるままに、7年前と同じ『愛のあいさつ』を奏でた。

「やはり7年前以上の輝きだ…」

 噛み締めるように呟かれた彼の言葉に、かなでは一瞬目を見開き、やがてふわりと微笑んだ。
 僅かな躊躇の後、思い切って口を開く。今ならば言える気がした。

「あの…ね、もしも、私の7年前の演奏が輝いていたとしたら、それはあなたのおかげだよ」

「……?」

 意味がわからないというように眉を寄せる冥加にニコリと笑うと、かなではヴァイオリンと弓をケースに納め、中から取り出した物を彼に見せた。
 小さな手のひらの上でキラキラと輝く古いE線に視線を落とした瞬間、冥加の切れ長の瞳が瞠られる。

「…っ…それは…」

 こくりと彼に頷いてみせる。

「お前はそんなものまで後生大事に持っていたのか…。
…まったく、あの手紙といい、お前はつまらんものを取っておき過ぎだ…」

 冥加の言葉に、かなでは軽く頬を膨らませる。

「つまらないものなんかじゃないよ。私には、とても大事な物だもの」

 かなではそう言うと、いつもステージに立つ前にやっていたように、金色の弦を包み込むようにぎゅっと手のひらを握り締めた。

「この7年間、ステージに立つ前はいつもこうやって、お守りにしていたの。
記憶が飛んでた間も、何故だかわからないけど、とても大切で懐かしい気がして、手放すことはできなかった…」

 ねぇ、冥加さん、とかなでは彼に静かに微笑みかけた。

「あの時、私にはあなたの方が輝いて見えたんだよ」

 本番前に弦が切れてしまい、なのに予備の弦も持ってなくて、どうしていいかわからなくて、ただ泣くことしかできなかった幼い自分。
 そんなかなでに唯一人優しく手を差し伸べて、助けてくれた整った顔立ちの少年は、自分とさして年は変わらないはずなのに、とても大人びて頼もしく見えた。

「あなたが張ってくれたこのキラキラした弦に負けないくらい、キラキラした音を奏でられたらいいなって思ったの。
 そうしたら――あなたのことを想いながら奏でたら、練習の時とは違う新しい音が生まれた」

 多分…、とかなでは弦を握った拳をぎゅっと胸に押し当てた。

「多分、あれが私の初恋だったんだと思う…」

「小日向……」

「それなのに」

 不意にかなでの表情が悲しげに歪み、彼女は唇をきゅっと噛み締めた。

「私はあなたに酷いことをしてしまったんだね」

 苦い笑みを浮かべると、かなでは弦をそっと制服のポケットに滑り込ませた。
 全ての記憶を取り戻し、あの優しかった初恋の男の子を変えてしまったのは他ならぬ自分だったと知った時。
 その事実はかなでを打ちのめした。
 7年もの長い間、自分の音楽を――演奏を憎みながら生きるのはどんな気分なのだろう。
 それはきっととても苦しくてつらい。

「ごめんね…」

 ぽつりと呟いたかなでの伏せた瞳から、つーっと一筋の涙が柔らかな頬を滑り落ちる。
 男が小さく息を飲んだ。

「ごめんね、考えなしのことしか言えなくて…」

 それがどれほど誇り高いあなたを傷つけるかもわからずに。

「ごめんね…、何もわからなかった馬鹿な子供で…」

 決して悪気があったわけではないけれど。
 自分がどんなに失礼なことを言ったか今のかなでにならわかる。

「…小日向、もういい…。今は何も言うな」

 だってっ、とかなではキッと伏せていた顔を上げた。
 その瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れる。

「嬉しかったの! 親切にしてもらって本当に嬉しかったの! なのに私はっ」

「小日向!」

 嗚咽をあげ、震える細い肩を冥加の両手が掴む。そのまま彼はかなでを強く抱きしめた。

「…っ…冥加、さん…?」

「泣くな、小日向…。お前に泣かれると…俺は……」

 苦しげなその声に、かなでは涙がいっぱいに溜まった瞳のまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 頬に当たる硬い胸も、彼女を護るように回された力強い腕の感触も、激昂する氷渡から護ってくれたあの時と同じ。
 だが、あの時は怒りに燃えて氷渡を睨み据えていた眼差しは、今は気遣わしげな色を浮かべ、彼女に注がれていた。

(あ…)

 ふっとかなでの躰から力が抜ける。かなでは一旦目を閉じると、再びゆっくりと彼を見上げた。

「…俺は?」

 かなでの言葉に冥加は自嘲するように唇を歪めた。

「……いや、何でもない。それより、もう泣くな」

 そう言って片腕は深く彼女を抱き込んだまま、もう片方の手でそっとかなでの涙を拭う。
 その優しい手つきに、かなでの目にじわりと新たな涙が浮かぶ。

「別に俺はお前の謝罪や涙を望んでいたわけではない。だから、これ以上お前が泣く必要はあるまい」

 理屈っぽいが、これは彼なりの慰めの言葉。
 やっぱり優しい人だなぁ。心からそう思う。
 あんなことをしたのだから憎まれてもしょうがない、そう思っていたのに。
 かなでが重そうなトランクを持っていたら、目障りだと言いつつ、運んでくれようとするし、毎日差し入れる野菜ジュースも迷惑そうな顔をしながらも、必ず受け取ってくれて、お返しもくれる。
 苦手そうな甘いものも、物凄い顔しながら結局全部食べてくれたし、困っていたら海老の殻も剥いてくれた。
 冷たい言葉を投げつけながらも、根っこのところはいつも優しくて。
 だから振り払われても、振り払われても、事ある事に彼の所へ行くのをやめることはできなかった。

「うん…、うん、そうだね。ありがとう…」

 こくこくとかなでが頷くたびに、彼女の頬に添えられたままだった冥加の指先に、はらはらと透明な雫が降りかかる。
 かなでの涙が宿る己の指先に視線をやり、冥加は形の良い眉をひそめた。

「ならば何故まだ泣く?」

「だって――冥加さんが優しいから…」

「………は?」

 くすんと洟をすするかなでを見下ろし、冥加は驚いたように目を大きくした。
 そうして彼は困ったように、小さく笑った。

「馬鹿な…。そんな理由で泣く奴がいるか…」

 呆れたように呟きながら、再び涙を拭ってくれるその手つきはとても優しい。
 それが更にかなでの涙腺を緩ませる。

「ほら、もう泣くな。お前も、この後、祝賀会に出るのだろう。
今日の主役がそんな赤い目をしてパーティに出席するつもりか?」

「そんなこと、言われたって…。それに止めようと思って止まるなら苦労しないもん」

 拗ねたように呟いて、再び俯こうとしたその時、かなでの頬に添えられていた手が滑るように顎に移動した。
 そのままくっと仰向かせられたと思った瞬間、かなでの唇にあたたかなものが触れる。
 かなでのつぶらな瞳が零れ落ちそうなほど見開かれた――





「び、びびびっくりしたぁー」

 顔中真っ赤にして唇を押さえ、大きな目をまん丸に見開いて立ち尽くしたまま、かなでは目の前の男を呆然と見上げた。
 その顔はいつものような仏頂面。でも…。

「あ、あの、今のってキ、キ……って、ええっ!?」

 自分の言葉に慌てふためいて、うろうろと視線を彷徨わせるかなでに、冥加は微かに口許を緩ませた。

「フッ、涙は止まったようだな…」

「あっ…、ほ、ほんとだ…」

 今の出来事に全て吹っ飛んでしまって、それどころではなかった。
 呆然と呟くかなでからふっと視線を逸らすと、冥加はふうっと大きく息を吐き出した。

「まったくお前は本当に厄介な女だな…」

 苦々しげな言葉とは裏腹にその表情は柔らかい。

「厄介で、泣き虫で、憎らしくて………そして、とても愛おしい…」

「え……」

 そこまで言わなくたって、と唇を尖らせていたかなでは、小声で呟かれた最後の言葉に弾かれたように彼を振り仰ぐ。
 そんなかなでの視線を避けるように、冥加はくるりと彼女に背を向けた。

「ほら、もう行くぞ」

「へ?」

 能天気な声をあげるかなでに、冥加は顎でホールの時計を示した。

「そろそろ移動しないと祝賀会に間に合わんだろう」

「ああ! すっかり忘れてたー」

「まったく…今日の主役がそんなことでどうする」

 冥加に苦笑され、かなでもエヘヘと小さく笑う。

「あ、でもその前に、ひとつ、お願いがあるんだけど…」

「…なんだ、言ってみろ」

 向き直った冥加を、かなでは上目遣いにじっと見つめた。

「う、うん。あのね……、あの、その…だから…」

 薄っすらと頬を染め、もじもじと煮え切らない態度のかなでに、冥加が不審そうに眉根を寄せる。

「なんだその態度は…。言いたいことがあるならはっきり言え」

「だ、から…そ、その、もう1回……」

 消え入りそうな声でぽつりと告げられた言葉に、冥加は僅かに眉を上げた。

「…………もう、1回?」

「だ、だって、さっきのびっくりしすぎて、よくわかんなかったんだもの!」

 真っ赤な顔で思わずかなでが叫ぶと、漸く意味が通じたようで。
 冥加は驚いたように一瞬目を見開いた。彼の眉間の皺が深くなる。

「…………………………」

「……や、やっぱり何でもない! 忘れてっ」

 沈黙に耐え切れなくなったかなでは、眉間にくっきりと皺を刻んだまま、目を伏せ、考え込む冥加に、背を向けると自分のヴァイオリンケースと荷物を持ち上げた。

わ、私、先に外出てるねっ、と早口にそれだけ言うと、そのままダッシュで扉の方へ向かおうとしたその時。かなでの腕が後方から強い力で掴まれた。

「待て、小日向」

「だ、だって…」

 背中を向けたまま俯くかなでの手から、優しく荷物を取り上げると、冥加は小さく溜め息をついた。
 カタンと微かな音がかなでの耳に届き、それで彼が荷物を床に置いたのがわかった。

「……………別に駄目だとは言っていない」

 低く落とされた彼の言葉に、がばりとかなでが勢い良く振り返る。

「い、いいの?」

 ぱあぁっと顔を輝かせるかなでに、冥加は甘く苦笑すると、ふわりと優しい笑みを浮かべた。

「いいも何も、言ったはずだ。……愛も、憎悪も、俺の全てはお前のものだと――」

 7年前を彷彿とさせる優しい微笑みに、かなでの鼓動が跳ね上がる。
 幼い彼女をたちまち虜にしたその破壊力は今も健在だったようで、かなではうっとりと瞳を潤ませると彼を見上げた。

「………そんなにじっと見るな。目を閉じてろ」

 こくりとかなでが頷くと背中に男の腕が回り、引き寄せられる。
 かなでの柔らかな頬をはらりと零れ落ちた冥加の長い前髪がくすぐる。
 零れるような微笑を浮かべると、かなではゆっくりと目を閉じた。





update : 10.5.2


かなでちゃんの7年前の「愛のあいさつ」が輝いてたのは冥加さんへの初恋効果だと信じてます。

8割方書いたところで配信イベントがきて、その後、続きを仕上げたら予想外に甘く(笑)
もー、配信イベントの冥加さんの過保護っぷりと、かなでちゃん甘やかしっぷりには萌え転がりました。
あの人、今やもう、かなでちゃんがおねだりすれば大抵のことはやってくれそうですよね^^

サバイヴのスチル『護るべきもの』と交通事故の夜のスチル『生と死の狭間で』は護るべき対象の頭に置かれた冥加さんの手とか 冥加さんの胸にちょこんと置かれた女の子の手とか対になっているのですね。
あの事故の夜の後も、両親を恋しがって泣く枝織ちゃんをああやって抱きしめて慰めたことが何度となくあったんだろうなと思ったら、 泣いているかなでちゃんへもあんな感じに…。

祝賀会へは、エンディングムービーで天宮は本人以外のEDだと、どこか別の場所にいるのですが、 本人EDだとパーティ会場に来てるので、冥加さんも本人EDの時はあの後かなでちゃんと連れ立ってパーティに来たんじゃないかなということで。
スペシャルの観覧車でもパーティ後設定で冥加さんもいますしね。





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