「おとなしくしていれば悪いようにはしない。さっさと来い」
高圧的な口調で言い切るなり、男はくるりと彼女に背を向けた。
そのまま振り返りもせずに、すたすたと歩き始めた背中をかなでは唖然と見つめた。
行くべきか。行かざるべきか。迷ううちにも、長身の後ろ姿はどんどん遠くなっていく。
と、その時ぐうっと音を立てて、彼女のお腹が小さく鳴った。同時に強い空腹感を覚える。
そういえば今日は大会当日で忙しかったこともあり、昼を食べたきり、何も口にしてはいない。
「レ、レストランにつられたわけじゃないんだから…」
少し頬を赤らめて。誰にともなく言い訳するように呟くと、かなではスーツの背を追って、駆け出した。
まるで真夏の夜の――、一時の夢を見ているような不思議な気分だった。
窓の外には色とりどりの花火が打ち上がり、ピシリと糊の効いたテーブルクロスの上に置かれたグラスや、
向かいに座る冥加の端整な顔に、ちらちらと鮮やかな影を落としている。
かなでは完璧なテーブルマナーで食事をする冥加を見るともなしに、眺めていた。
ホテルの最上階の高級レストランなど初めてで、やや緊張気味の彼女と違い、スーツ姿の冥加は憎らしいほど堂々と落ち着き払っている。
いつもと違い、言葉少ななかなでを訝しく思ったのか冥加が彼女に話を促す。
それをきっかけに始まった会話は、弾むとまではいかなかったけれど、いつもは激しい憎しみをぶつけてくる彼の表情が今夜はほんの少し柔らかい気がして、かなでは何だか嬉しかった。
アミューズ、オードブル、スープ、グラニテと進み、メインの料理が運ばれてきた時、かなでは少し困惑した。
メインのオマール海老のテルミドールはとても美味しそうだったけれど、上手に食べるのは少し難しそうに思えたからだ。
冥加の手つきを参考に見よう見真似で、フィッシュナイフとフォークを懸命に動かす。
「あ、あれ? おかしいな…。あれれ…?」
だが、なかなか殻から身を外せない。それどころか下手に力を入れると皿から海老が飛び出してしまいそうだ。
(うう。どうしよう…)
かなでの眉がハの字に下がる。思わず途方にくれたような溜め息がかなでの唇から零れた。
その時。苦戦する彼女の耳に、大きく息を吐く音が聞こえた。
「――見ていられんな。貸せ」
『――泣いていたって直らないだろう。貸してみろ』
低い男の声に、少年期特有の高く澄んだ声が重なる。
遠い記憶の中の――今も耳に残る懐かしい声が蘇る。
「あ……」
かなでは瞠目し、素早く皿を引き寄せると気難しげな表情で手際良くオマール海老を切り分けている冥加の顔を見つめた。
眉間に大きく皺を刻んだ眼光鋭い男の顔に、優しかった初恋の男の子の面影が重なる。
冥加と再会してこのかた、何度か接するうちに、薄々感じていたことが確信に変わる。
差し入れを渡した時――、かなでをかばって彼が負った怪我の手当てをしようとした時――、冥加の憎しみの下に見え隠れしていたもの――
昨日のサンセシルと天音の戦いで、自分でもわからぬまま強い気持ちに衝き動かされて、思わず彼を応援した理由がすとんとかなでの胸に落ちる。
ゆっくりと。かなでは晴れやかな微笑をのぼらせた。
「どうした? 突然ニヤニヤして気味が悪い」
海老を切り分け終わった冥加が皿をかなでの方に戻しながら、不審そうに眉根を寄せる。
「ん、あのね…、そういうとこ昔と変わらないなぁと思って」
懐かしい記憶に目を細めながら。ニコリと笑ってそう言うと、冥加は酷く驚いたように彼女を見た。
「突然何を言い出すかと思えば馬鹿馬鹿しい。変わらないことなどあるものか。…だいいち貴様に取って7年前のあの大会は記憶から抹消するくらい、思い出したくもない忌まわしい出来事だったのだろう」
酷く苦い物でも飲み下したかのように、冥加の顔が苦しげに歪む。
忌々しげな彼の言葉に、かなでは慌ててぶんぶんと首を振る。
「そんなことないです。そりゃあ1度はショックで記憶を飛ばしたのは事実だけど…」
でも、とかなでは彼女を宿敵と呼ぶ男の目を真っ直ぐ見つめた。
「今は思い出せて良かったと思ってるもの。当時は見えなかったものも、今の、この7年後の私になら見えてくるものだってあるから」
そう、この人がどれだけ優しい人であるのか。
7年前のあの時、かなでは師に取りすがる冥加を偶然見かけた。
当時は細かい事情までは知らなかったけれど、それでも優勝出来なければ彼がとても困った立場に追い込まれることだけはわかった。
だが、状況は彼女の想像以上に深刻だったのだ。冥加の凄絶な過去を思うと胸が痛む。
――あまたの挑戦者を退けて勝利の歓喜を手にするのは……たったひとり。
脳裏に外国語訛りのイントネーションの年配の男の声が蘇る。
勝利を手にすることが出来るのはたったのひとりだけ。
コンクールの出場者は皆ライバルだ。
そんな自分と妹の運命が決まる重要なコンクールで、見知らぬライバルの女の子に、優しく手を差し伸べることが出来る人間がいったいどれほどいるのだろう?
『泣くほどのことじゃない』
そう言って安心させるように、彼女に微笑みかけた少年の声は今思い返しても、涙が出そうになるほどあたたかく、優しかった――
「小日向……」
冥加の切れの長い瞳が見開かれる。ややあって。彼はかなでから視線を外すとフッと笑った。
「貴様でも少しは成長したというわけか。…もっとも、さっきも言ったが、見た目の方はあの頃と大して変わってないようだがな」
(この男はまだ言うか)
甘酸っぱい追憶が当の本人によって、一瞬で掻き消される。
先ほど、貴様はまるで小学生だと言われたことを思い出し、かなでは鼻で笑う冥加をむうっと睨みつけた。
「た、確かに私は年齢より幼く見えるかもしれないけど」
「かも、ではない。最早、貴様がどこからどう見ても、高校生には見えん容姿だということは確定事項だ」
「なっ…!」
ガーンという音が、かなでの脳内で鳴り響く。
(そこまで言うかー!)
額に手を当てて、嘲るように笑いながら、まるで宣言でもするように、高らかに、無駄に自信満々に言い切る冥加に、かなでは頬を膨らませた。
言ってやる。今日こそ言ってやる。いくら日頃はぽやーっとしてると言われている私だって、そういつもいつも言われっ放しじゃすませないんだから。
唇をわなわなと震わせる彼女を薄い笑みを浮かべて、まるで楽しむかのように見ている冥加をキッと見やると、かなではおもむろに口を開いた。
「…冥加さんだって」
「は?」
「私も童顔だけど、冥加さんだってどこからどう見ても老け顔なんだから高校生に見えないのは同じでしょ」
だからおあいこですよね、と言って、かなでがふふっと笑ってみせると、冥加の眉間の皺が一層深くなる。
「…この俺が…老け顔だと?」
元々低い彼の声が地の底を這うように更に低くなる。
だって自覚あるんでしょう? と、かなではクスクス笑いながら言葉を継ぐ。
「ほら、さっき可愛げのない容姿だから制服じゃなくてスーツ着てきたって、自分でも言ってたし」
「……っ…それは…」
珍しくグッと詰まった冥加を眺めながら、かなでは一矢報いた気分になり、心の中でやったぁ!と叫んだ。
「…貴様、先ほど、やけに楽しげに笑っていたのはそういうことか」
かなでがにっこり笑って頷くと、冥加は酷く不快そうに顔をしかめ、溜め息をつく。
「まったく…やはり貴様といると不愉快なことばかりだ…。
くだらんことを言ってる暇があったら、さっさとその海老を食べたらどうだ。冷めるぞ」
「あ、はぁい」
初勝利に気をよくしたかなでは早速オマール海老を口に運ぶ。
「おいしい!」
絶妙の味わいに思わず顔が綻んだ。
「…口についたソースくらいはふいておけ。そこまで面倒はみきれんぞ」
やれやれと言った調子で冥加が言う。
さすがに今のこの状況で口についたソースまで冥加がふいてくれるとは思わないが、口頭で教えてくれるだけでも、十分面倒見がいい人だなぁとかなでは思う。
「やっぱり変わってないなぁ…」
口許をナフキンで拭いながら呟くと、かなでは一層深く微笑んだ。
1歳違いなのに年齢差カプにしか見えない童顔&老け顔カップル万歳♪(笑)
セミファイナルで女帝からトラウマ攻撃を受ける冥加さんを応援する時
「そんなのは許せない」を選んだ方が親密度は高くアップするのですが、「負けないでほしい」を選ぶ方が私は好きです。
後者を選ぶと、かなでちゃんは7年前のことを思い浮かべるのですが、その時かなでちゃんの心に浮かぶのは、
あの燃えるような目で彼女を睨み据えていた憎悪の眼差しを向ける冥加少年ではなく、
金色の弦を張ってくれた時の優しい姿の方なんですよね。
地方大会1日目の時は、冥加さんの顔を見ただけで響也にそうと指摘されるほど青ざめていたかなでちゃんが、
やがて記憶を取り戻し、身を挺して護ってもらったり、と色々とあって少しずつ打ち解けていった結果、、
あの時点で、もうかなでちゃんの中での冥加さんの認識は優しかった初恋の男の子に戻ったんだなぁと嬉しくなりました。