花火
 ドーン! という大きな音が辺りの空気を震わせて響き渡った。
 次々と夜空に咲き誇る大輪の花を、まるで小さな子供のように目を輝かせて、うっとりと見上げる少女の横顔を飽きることなくずっと眺めていた。








『花火』








「日野君…?」

 不意に、背後からかけられた声に、香穂子は振り返った。
 日の落ちた臨海公園の薄闇に溶け込むようなダークスーツの男を認めた瞬間、彼女の顔が輝くような笑顔になる。

「吉羅さん!」

 それまで座っていたベンチから勢い良く立ち上がると、香穂子は吉羅の方へ小走りに駆け寄った。

「こんな時間にどうしたんですか? 吉羅さんも花火見物…のわけないから、今日もお仕事?」

 ニコニコと嬉しげな笑みを浮かべながら、矢継ぎ早に質問する香穂子に、吉羅は静かに頷く。

「ああ、お察しのとおり仕事だよ。もっとも仕事自体はもう終わったがね。
今から帰ると交通規制に巻き込まれるのは確実だから、それで時間潰しに来たというわけだ」

「花火の前後は周辺道路は上下線ともに通行止めですものね。解除された後もしばらくはすっごい混むし」

「学院再建に関わるまで、こちら方面にはずっと来ていなかったからな。
まったく…、開港記念日なんてすっかり忘れていたよ」

 苦虫を噛み潰したような顔で呟く吉羅を、香穂子はどこか面白がるような表情で見つめている。

「で、君はやはり花火見物かね? ――いや、ヴァイオリンケースがあるな…」

 ベンチの上に置かれたままになっていた香穂子のヴァイオリンケースに視線をやりながら言う吉羅に香穂子はこくんと頷く。

「両方とも当たり、です。今日は学院もお休みだし、ヴァイオリンの練習するつもりで楽器持って家出てきたんですけど、人手の多さに出かけてから、今日が開港祭だったの思い出して……。
あちこちでライヴやダンスのイベントやってるから、あまり練習は出来なくて今日は見る方に回っちゃいましたけどね」

 でも、パレードもお神輿も楽しかったし、ま、いっかー、と笑う香穂子に吉羅が問うた。

「パレードが行われるのは確かいつも昼頃だったな。――では、君は昼間からずっと…? 夕食はちゃんと摂ったのかね?」

 ちらりと目を落とした腕時計の針は既に八時を越えている。

「はい、実はさっきまで私、臨港パークの方にいたんですよ。
あそこ、今日はエスニックとか色んな屋台出てるから、そこで適当に…。結構美味しかったですよ。
でも、人混みにちょっと疲れちゃって…。あそこはステージもあるし、花火の打ち上げ会場の前だから、人混みも凄くて…。だからこっちに移動して来たんですけど」

 吉羅さんにも会えたし、こっち来て正解。ここからでも十分見えるしね、と香穂子はにこりと笑う。
 とその時。
 眩い光が夜空に溢れた。一拍遅れて腹の底に響くような大音量が大気を震わせる。

「始まりましたね!」

 目を輝かせて暗闇に咲いた大輪の花を見上げると香穂子は、こっちで見ましょう、と弾む足取りで海沿いの手すりの方へと歩いて行く。

 手すりに腕をついて花火に見入っていた少女は吉羅が隣に並ぶと、一度横を向いて、彼に微笑みかけた後、再び夜空を見上げた。
 わくわくと小さな子供のように輝かせた大きな瞳。綻んだふっくらと柔らかそうな唇。
 滑らかな白い頬に意外と長い睫毛が影を落とし。時折吹き付ける潮風が彼女の額や肩にかかる柔らかな髪を優しく揺らしている。
 決して美人と言うわけではない。どこにでもいるようなごく普通の少女、というのが最初の印象だった。
 だが――。

「――綺麗だな」

 ぽつりと呟いた彼の言葉に、香穂子が振り返り、にっこりと笑う。

「ええ。まさしく『夜空に咲き誇る大輪の花』って感じですよね」

 香穂子の返答に、僅かに吉羅の瞳が大きくなる。
 くくっと喉を低く鳴らし笑い始めた彼を香穂子はしばらくきょとんと見上げていたが、何か言いかけたように彼女が口を開きかけた瞬間小さくくしゃみをして、それは言葉にならなかった。
 ぶるりと身を震わせた彼女の姿を改めて見れば、今の気温には少々薄着過ぎる服装。

「寒いかね?」

 彼が問えば、香穂子はこくりと素直に頷く。

「昼間はこの格好でも暑いぐらいだったんですけど、やっぱり夜になるとちょっと…」

「海からの風が意外と躰を冷やすこと、君もこの地に育ったなら知っているだろうに」

 小さく溜め息をつくと、吉羅はスーツの上着を脱いだ。
 彼女の後ろに回り、バサリと着せかけてやると、驚いたように香穂子の瞳が丸くなる。

「あ、ありがとうございます」

 頬を染めて礼を言う少女の躰をそのまま包み込むように後ろから抱きしめると、今度は耳まで真っ赤になる。

「だ、大丈夫ですか? 誰かに見られたら…」

「今夜は皆、臨港パークの方へ行っているよ。それに、こちらへ流れて来てる少数の人にしたって、今は皆、花火を見るのに忙しくて、とても他人のことなんか見ちゃいないさ」

(いや、花火などまるで見ていない物好きな男も一人いたか)

 くすりと小さく笑った吉羅を香穂子が首を反らし、不思議そうに見上げる。

「笑ってるしー。もう! 私一人心配しててばかみたいじゃないですか」

 どうなっても知らないんだから、と拗ねたように呟くとふいと前を向くが、それでもゆったりと躰をあずけてくる。
 この体勢では、もう彼女の後頭部しか見ることは出来ない。
 その柔らかな躰を深く抱え直すと、吉羅は今度こそ夜空を見上げた。




update : 07.7.29
6月2日の横浜港の開港記念日に、開港祭の花火をうちのベランダからぼーっと眺めてるうちに出来た小話でした。
横浜は観光地で、催し物も、遊び場所も多いので、ネタに事欠かなくて有り難いのですが、 最近何見かけても、もし、ここに吉羅と香穂ちゃんがデートに来たらどうなるか…とかお話を考え出してしまうので困ります(笑)





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