夕日が茜色に空を染め、木々が長い影を作る。どこからか潮の匂いを風が運び、穏やかに枝葉を揺らす。
その公園は観光地にもなっている山下公園などと違い、遊具も少なく、ごく小さなひっそりとした所だった。
普段は地元の子どもが訪れる程度のその小さな公園に、だが今日は少女たちの楽しげな、明るい笑い声が響いていた。
「それはそれは…。冥加玲士と如月弟のアスレチック対決など、さぞや見物だったろうに。
そんなオイシい現場に居合わせることができかったとは報道部としては、いささか悔やまれる事態といえるな」
ニアの言葉に隣のブランコに腰掛けた小柄な少女が、後、七海くんもね、とクスクスと笑いながら付け足す。
「それにしても、冥加と『まだちゃんと決着をつけてない』とは如月弟もよくも言えたものだな。
決着をつけてないどころか惨敗して、かなり長い間落ち込んでいたのは誰だったのやら。
しかも、自分から言い出した対決のくせに、まともに勝負しても勝てないから、ロープを揺すって反則攻撃だろう」
ガキすぎるぞ、と呟く呆れ顔のニアに、まあまあ、そこが響也の可愛いところだから、と言いながら、かなでも小さく苦笑する。
「それはそうと、そんなシャッターチャンスを前にして写メの1枚も撮らないとは、まったく君ときたら…」
少々恨めしげにニアが軽く睨むと、かなでは慌てたように口を開く。
「だって、あれよあれよというまに、対決することになってしまって……。
それに、私、冥加さんと七海くんの上着持ってなきゃいけなかったから両手もふさがってたし…」
「まぁな。七海はともかく、冥加の無駄に長くて、重い白ランを持たされたとは君もさぞや大変だっただろう」
「う、うん。まあ、そうかも」
ホッとしかけたかなでに、ニアがにやりと笑う。
「なんて私が言うと思うか? まぁ、君がそんなに幸せそうな顔して上着のことを言わなければ同情のひとつもしていたところだが」
「ええー、私、そんなに顔に出てた!?」
ああ、いつもながら、君はとてもわかりやすいからな、と笑いながら受け合うニアに、かなでは頬を染め、困ったように小さな笑みを浮かべた。
「――でね、一生涯かけて憎み続けると言ったはずだが?
何があろうとその言葉をくつがえすつもりはない、て言うんだよ。微笑みながら」
とても優しい声だったなー、と呟きながら、その時のことを思い出してでもいるのか少女は嬉しそうに笑う。
「冥加さんが私のことをどう想っているかは、冥加さんがそうだったように、片時も忘れることなく永遠に考えろって」
「おやおや、それはまた情熱的なことだな」
「この関係は恋などという砂糖菓子のようなものじゃないとも言ってたっけ。
――あえて言葉にするなら、『運命』なんだって」
「まったく、あんなまぎれもなく恋する男のまなざしで君のことを見ているくせに、よく言うな、あいつは」
呆れの色を乗せて思わず呟く。君も面倒な男に惚れたものだな、とニアが腕を組みながら言葉を継ぐと、そうかも、とかなではふふっと笑う。
「だが、あの男のそんなところも君は嫌いじゃないんだろう」
笑みを含んだニアの声に、素直な少女の頬がポッと染まる。
「もー、ニアにはかなわないなぁ…。何でもお見通しなんだから」
拗ねたように呟いて、軽く頬を膨らませると、からかうように笑うニアの視線を避けるように、かなでは立ち上がった。
そしてブランコの上に今度は立って乗ると、軽く漕ぎ出す。
その動きにつられ、明るい色の髪がさらさらと肩の上で踊る。
「気持ちいーい。ニアも一緒にやろうよ」
「いや、私は遠慮しておくよ。ふふ、まっしぐらにアスレチックに駆けていった話といい、君は意外とお転婆だな。
こんなところ冥加にでも見られたら、また叱られるぞ?」
冥加さんはここにはいないもーん、と明るく笑う全然懲りてないかなでの様子に、やれやれ、あの男もこの先も気が抜けないな、と少しばかり血の繋がらぬ従兄妹に同情し、ニアは優しく目を細める。
「…ねぇ、ニア」
「なんだ、小日向?」
「関係に名前をつけるのってそんなに重要なことかな…」
ぽつりと呟かれた思ってもみなかった言葉に、ニアはかなでの顔を見上げた。
だが、真っ直ぐに前を向いたままブランコを漕ぎ続ける彼女の横顔は夕映えに照らされていて、その表情はよくはわからない。
「さあ…、初めて君をハラショーに案内した時も言ったが、私は己の名すら重要視していない人間だからな」
そう、名など不変のものってわけじゃない。そんな状況次第でいくらでも変わるものに捕らわれるなどナンセンス極まりないことだとニアは思っている。
「そういえばそんなこともあったねぇ。実際はまだそんなに経ってないはずなのに」
何だか随分前のことのような気がするなー、とかなでが再びふふっと笑う。
「私ね、神戸から帰ってからずっと考えてたの。今でもまだ答えは出てないけど……。も、いいや。決めた」
かなでが膝を曲げて、また伸ばす。ブランコがスピードを増し、髪が跳ねる。鎖がキイキイと音を立てた。
「この関係が恋でも、恋じゃなくても…、運命でも、そうじゃなくても、私は――」
ニアの見守る前で、ふわりと少女の躰が浮き、トンという軽い音と共に前方の地面に着地する。
「冥加さんの側にいられるなら、それでいい」
振り返ってニコリと笑うかなでを、ニアは眩しいものでも見るように、双眸を細めて見つめた。
「……君は、強いな」
ニアの言葉にかなでは、そんなことないよー、とはにかんだようにふわりと笑う。
「まぁ、そう気にするな。どんな言い方をしようと、君があの男の心を7年前から独占し続けていることはまごうかたなき事実だ」
それに、とニアはゆっくりとブランコから立ち上がると、かなでの隣に並んだ。
「あの男の言葉を認めるのもしゃくだが、君たちの関係が運命だというのも、あながち間違いではないんじゃないか。
何といっても君たちはヴァイオリンロマンスの奇跡で結ばれているのだから。
――聴こえたのだろう?」
“いつ”とも“何を”ともニアは言わなかったが、その問いはすぐに確信を持って返された。
「うん、ハッキリと」
かなでは思い出すように、胸を押さえ、うっとりとその大きな瞳を潤ませた。
距離を越えてかなでの耳に届いた、聴こえるはずのない甘く優しい旋律。すぐに彼の音だとわかった。
その音色は、今でもかなでの胸の中で甘く響き続け、これからも決して消えることはないだろう。
「そうだろうな。なんせあの時の君ときたら、私の言葉が終わりもせぬうちに、一目散に駆け出していってしまったのだから」
「…ごめん」
微かに頬を染めて謝るかなでに、ニアは優しく笑いかけた。
「別に責めてるわけじゃない。君が謝罪する必要はないさ。
おかげで、我が学院に伝わる壮大なおとぎ話の実証に立ち会うこともできたしな。
ふふっ、そういった意味でも、今や君たちは生ける伝説だ。まぁ、記事にできないのは残念だが…」
そこまで言ったところで、さて、とニアは首を巡らした。
「随分長く話し込んでいたようだな。そろそろ帰らないか? だいぶ日が傾きかけている」
近くのベンチに置いてあった鞄を取り上げながらニアが言う。
そうだね、と頷くとかなでもヴァイオリンケースと鞄を持ち上げた。
「でも不思議だよねぇ…。聴こえるはずのない音があんなにハッキリと聴こえたなんて…」
しみじみと呟かれたかなでの言葉に、ニアは楽しげに微笑んだ。
「ふふ、バカだな、君は。起こり得るはずのないことが起こるから、人はそれを奇跡と言うのだろう?」
かなでは一瞬きょとんとつぶらな瞳を瞬かせたが、すぐに満面の笑顔で大きく頷いた。
「そっかぁ。そうだよね。――でもね、私、この頃、こうも思うの」
「何をだい?」
並んでゆっくりと家路を辿りながら、ニアが問う。
「本当の奇跡は、聴こえるはずのない音色が届いたことじゃなくて」
ふんわりと春の日溜りのような笑みを浮かべ、かなでは幸福そうに顔を綻ばせた。
―――1度は失ったと思っていた恋を7年かけて取り戻せたことなんじゃないかなって
ニアは響也や天宮には辛辣なのに、冥加さんにはほんの少し優しい気がします。
「天上の音」「特級の演奏者」と音楽的にはベタ誉めだし、天宮の時はやめろやめろと言うくせに、初期は敵対心剥き出しで、天宮よりも
遥かにヤバそうな冥加さんのことは1回も止めないし。
まぁ、冥加さんのアレクセイへの反抗を応援してることもあるんでしょうけど。