「でね、私が何か失敗したり、おかしなこと言ったりすると、最近すぐ『手のかかる妹を持った兄の心境』とか『バカな妹を持った兄の気分』とか言うんですよ」
ヒドイと思いません? と唇を尖らせて。音楽準備室の椅子にすとんと腰を下ろすと、少女は同意を求めるように彼を見上げた。
彼が口を開く前に、その顔にすぐに何かを思い出したような笑みが浮かび、少女はクスリと顔を綻ばせた。
「だからね、悔しいから、この間ふざけて『あきひこお兄ちゃん』って呼んだら、そしたら吉羅さん、急に不機嫌になっちゃって…」
勝手ですよね〜、と言いながらも、彼女は楽しそうにクスクスと笑っている。
でも、なんでだろ? と小さく呟く日野を見ながら、金澤は反射的に口から出た言葉を何の気なしに紡いでいた。
「なんでだろ? ってお前さん、そりゃあ…」
(…そりゃあ……?)
不意に言葉を止め、考え込む金澤を気にするふうもなく少女は何かを思いついたように、突然悪戯っぽい笑顔になる。
「そうだ、次にイヤミ言われたら、今度は『おじさま』って呼んでやろっと」
考えにふけっていた金澤は、日野の発言にギョッと彼女の顔を見返した。
「…やめとけ。100倍になって返ってくるぞ」
「う。やっぱり? 吉羅さん、口が減らないからなー」
「今の話聞いてると、お前さんも結構負けてないと思うぞ」
金澤の言葉に、心外だというように、少女の眉が上がる。
「金澤先生までヒドーイ!」
私はあんなに口悪くないですー、と日野が頬を膨らませる。
それにしても、と少女が小さく笑う。
「100倍って言う時、妙に実感こもってましたけど」
さすがにつきあい長いだけあるなあ、とおかしそうに、彼をちらりと見上げる日野に、金澤は顔を顰めた。
「う。ほっといてくれ。それより、いーからお前さんは、ほら、ちゃっちゃとリリの所へラチェットの相談しに行った行った。
早く行かないと下校時刻になっちまうぞ」
「あ、ほんとだ! ラチェットのことだけ聞いたら、すぐに正門前に戻ろうと思ってたのに…」
金澤の言葉にパッと時計に目をやった日野が立ち上がる。
「それじゃ金澤先生、色々アドバイスありがとうございました。
長々お喋りしちゃってごめんなさい。失礼します!」
「おう。上手いことファータショップで取り計らってくれるといいな」
挨拶するが早いか少女は白いプリーツスカートを翻して元気に走っていく。
そんな彼女にひらひらと手を振って見送ると、金澤はひとりニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
「『あきひこお兄ちゃん』ねぇ…」
「…わさん。金澤さん」
「ん? ああ、すまんな、ボーッとして…」
カラン、と氷の音を立てて、グラスに残った酒を流し込むと、金澤はカウンターの中のマスターにおかわりを頼んだ。
バーカウンターに並ぶ隣に座る彼の方にスツールを回し、金澤が躰ごと向き直ると、吉羅は薄い笑みを浮かべた。
「急に黙ってしまうものだから、また目を開けたまま寝てるのかと思いましたよ」
「あのな…。俺がいつそんなことしたつーんだよ?」
半目になって長年の友人でもあり、後輩でもある男を睨むと、金澤は、はー、やれやれと溜め息を一つ落とす。
「教壇に立っている時も、時々夢の世界を彷徨ってらっしゃるようだと生徒から聞きましたが?」
「誰がそんな余計なことを!? あれは瞑想だっつーの」
「はいはい」
「ちぇ。お前信じてねーな。…まあ、いいや。で、どこまで話したんだっけ?」
「第3セレクション終了直後、魔法のヴァイオリンが壊れたところまで、ですね」
「おー、そうだそうだ」
このところ、この後輩は彼が星奏学院に姿を見せるようになる以前の日野香穂子の話を金澤からよく聞きたがるようになっていた。
『日野君の過去の練習傾向をリサーチすることで、これから彼女をプロモートしていく上で、効率的、かつ効果的なスケジュールを組むことができるので』というのが彼の言い分だったが、日野の話を聞く時の吉羅のいつになく楽しそうな様子を見ていると、どうもそれだけとは思いがたい。
「――それで、日野君はどれくらいで立ち直ったんですか?」
「ああ、壊れた当日はさすがの日野も放心状態だったみたいで、ひとりでガックリ落ち込んで帰っていったあいつを見て、リリがえらく心配していたと冬海のヤツが言ってたが…」
「ほう…」
「俺は最初に普通科の日野がファータに見込まれて、コンクールに半ば強制的に参加するようになった時も、魔法のヴァイオリンが壊れた時も、正直あいつは辞退するんじゃないかと思っていたんだが、落ち込んでいたのはほんの一時。辞退どころか――」
「――辞退どころか日野君は前にも増してがむしゃらに、ヴァイオリンを弾くようになった」
でしょう? と吉羅はにやりと唇を歪める。
「あ、ああ」
「ハハ、それでこそ日野君だ。むきになって練習しているところが目に浮かびますよ」
心底愉快そうに声を立てて笑う吉羅を金澤は目を丸くして見つめた。
こいつがこんなふうに声を立てて笑ったところを見るのなんて、何年ぶりだろう?
「どうかしましたか、金澤さん?」
呆然と彼を見つめる金澤に、吉羅が訝しげに眉を寄せる。
「いや…、最近お前、よく笑うようになったなって…」
「…そうですか?」
驚いたように、吉羅の瞳が軽く見開かれる。
自分で自分のことはわかりませんが…、と呟く吉羅を眺めながら、金澤はここが突っ込みどころかもしれないと頬を緩ませた。
「ああ。たとえばコンミス候補の普通科ヴァイオリニストの話題の時とか特にな〜」
途端にすっと切れ長の瞳が細まり、吉羅は手にしていたグラスを置き、腕を組むと冷ややかな眼差しで、ニヤニヤ笑う金澤をねめつけた。
「……何が言いたいんですか?」
「お前、最近休みになるとよく日野と出かけてるんだって?」
ああ、なんだ、そんなことですか、と吉羅は腕を解くと無表情に彼を見つめた。
「オーケストラの打ち合わせを兼ねて、何度か軽く食事したまでですよ」
「打ち合わせ、ねぇ。ま、食事はもしかしたらそうかもしれんが、だが、さすがに水族館は打ち合わせってわけじゃないだろうよ」
「フッ、今夜はやけに絡みますね。…確かに息抜きに一度連れて行きましたよ。
彼女は集中すると根をつめてそればかりになってしまうようなので。
――しかし、何故金澤さんがそんなことまで知ってるんですか?」
「それは、だなっと」
そこで金澤はいったん言葉を切ると、よっと手を上げて、少し離れた奥の棚の所でボトルを磨いていたマスターにおかわりのオーダーの合図をする。
新しいグラスが置かれ、マスターが再び棚の前でボトル磨きを再開するまで待つと、金澤はようやくグラスを手に取った。
注がれたばかりのアルコールのにおいに目を細めながら一口啜ると、おもむろに口を開く。
「――この前の日曜、俺もあいつを水族館に誘ったからだ」
「…へぇ」
ピクリと微かに――多分つきあいの長い金澤以外なら見逃していただろう――ほんの微かに吉羅の頬が強張る。
だが、すぐに口を開いた彼の言葉は常のごとく淡々としていて淀みがない。
「休日は子どもが多くて辟易としたでしょう? いや、金澤さんは私と違って子ども好きだから、そんなことはないか…」
「さあ、どうだろうな…」
「…?」
「子どもが多かったかどうかなんて、そんなこと俺は知らんよ」
「何故ですか? まさか『日野君しか目に入らなかった』なんて、そんな歯が浮いて酒がしみそうなたわごと、いい年して言うつもりじゃないでしょうね?」
口調は冗談めかしているが、その目は笑っていない。金澤はまじまじと吉羅の顔を見つめると、すっと手を伸ばして豊かな前髪の上から後輩の額を指ではじいた。
「っ!」
「ばーか」
「いい年してまたそういう子どもじみた真似を…!」
「…断わられたんだよ、俺は」
「は?」
「『水族館ならこの間吉羅さんと行ったんですよ』って、嬉しそうににっこにこ微笑みやがってさー。
だから、行ってもいない水族館の様子なんか俺が知るかつーの」
片手で額を押さえて、彼を睨みつけていた吉羅の動きが虚をつかれたように止まる。
「…………」
「お前、今ホッとしただろ?」
「別に」
「いーや、してたね」
「してませんよ。しつこいですね、もう酔ったんですか?」
相変わらず素直じゃねーなあ、とニヤニヤ笑う金澤を吉羅がじろりと睨む。
「そういや、すし屋だと思ったら、水族館だったって――すっかりお前にしてやられたって、あいつ、すげー楽しそうに笑ってたよ」
金澤の言葉に、吉羅は微かに口許を綻ばせた。
「…そうですか。変わったお嬢さんだ…」
「まったくだぜ。ったく周りには若くて才能があって、未来ある連中や渋くて優しくてか〜っこいい音楽教師がいるってのになあ。
日野のヤツ、何でよりによってこんな仏頂面で無愛想で口の悪い男しか目に入らんかな?」
あーあ、と大きく息を吐いて。今世紀最大の謎だよなあ、といつもの調子で軽口を叩く金澤に、誰のことやら、と吉羅は澄まし顔で酒のグラスを口に運ぶ。
「というか渋くて優しくてかっこいい音楽教師なんて星奏学院にいましたっけ?
理事長の私が知らないなんておかしな話ですね。モグリですかね?」
「お前なあ…。傷心のか弱い先輩をこれ以上いじめるなっての」
「誰がか弱いですって?」
明らかに笑いをこらえている表情の後輩に、金澤は素知らぬ顔で言葉を継ぐ。
「つーわけで、俺様をいじめた詫びに今日はお前のおごりな」
「は? なんなんですか、その訳のわからない理屈は?」
呆れ顔の吉羅の肩を金澤がぽんと叩く。
「ま、細かいことはいいじゃねーか。なあ、『あきひこお兄ちゃん』」
金澤がにやりと笑いかけると、見る見るうちに、吉羅の顔が苦虫を噛み潰したような渋面になる。
「…………」
金澤がどこまで聞いているのか測りかねているのだろう、暫く探るような視線を彼に向けていた吉羅は、やがてはぁ、と大きな溜め息をつくとふいっと視線を外した。
「別段、ご馳走するのは一向にかまいませんがね。
しかし、こんな無精髭でむさ苦しい年上の弟は持った覚えはないとだけは強く主張しておきます」
「やりィ! よし、マスター、この店で一番高い酒ロックで!」
はしゃいだ声を立てる金澤に、吉羅がやれやれ、と言わんばかりに苦笑する。
これくらいささやかな意趣返しをしてやっても罰はあたらないだろう、とこのところ彼の1番お気に入りの生徒の週末を独占し続けている男の横顔を眺めながら、金澤は新たに運ばれてきたグラスを手に取ると口をつける。
喉を滑り落ちていく上質の酒は喉越しもなめらかで、さすがに旨い。
だが、胸に感じる一抹の苦さを酒のせいにすると、金澤は拳でぐいと強く唇を拭った。
水族館デートって、あのイベント発生順だと、うちの香穂ちゃんだったらこんな展開になりそうだなーと(笑)個人的には金やんも好きなんですけどね。
『来し方・金澤』では、金やんからコンクールの時の香穂子の様子を聞いた時の吉羅の反応に萌えまくりましたv
萌えたといえばもひとつゲームオーバー時の吉羅の説教台詞!
すごい萌えて是非使いたいと思っていたので、今回冒頭に入れてみました(笑)
「バカな妹を持った兄の気分」とか、かなり身内感覚で微笑ましくて、怒られてるのに何だかあたたかい気持ちになっちゃいましたよ^^