休日の駅前通りは今日も人で賑わっている。
足早に歩いていた香穂子は、慣れた様子で買い物客が作る人混みを擦り抜けると、駅に辿り着いた。
「えーっと、天羽ちゃんとこはあそこで乗り換えだから…」
路線図を見上げて金額を確認しながら、天羽の家の最寄駅までの切符を買う。
香穂子は、今日はここから電車で30分ほどの所にある友人の天羽菜美の家に遊びに行くことになっていた。
自動改札を抜け、構内に足を踏み入れたところで外へ向かう幾人もの人たちと擦れ違う。
どうやら丁度今、電車が行ったところらしい。
そんなことを考えながら、ホームに着いた香穂子はそこで思わぬ人物の姿を見かけ、顔を輝かせた。
「吉羅さん!」
香穂子の声に、ドリンクの自販機の前にいたスーツ姿の男が振り返る。
「ああ…日野君、君か」
「こんにちは、吉羅さん。今日もこれから学院へいらっしゃるんですか?」
にこやかに挨拶する香穂子に、吉羅は鷹揚に頷いた。
「そうだが」
「休日なのに、お仕事ご苦労様です…、って、吉羅さんでも、そういうの飲むんですか?!」
星奏学院再建のため休日返上で働く吉羅を笑顔で労っていた香穂子の瞳が、男の手の中の缶コーヒーに気づいた瞬間丸くなる。
香穂子の中では、吉羅のコーヒーを飲む姿といえば、理事長に就任した後もいつも、アール・デコ調に統一された星奏学院の校舎にあわせて用意されている応接室の来客用の『ローゼンタール』や『オールド・ノリタケ』などのアール・デコデザインの高価なアンティークカップで、しかも仕事をしながら優雅かつ無造作にか、または音楽準備室で金澤の煎れたものを、のどちらかのイメージしかない。
「まあ、たまにはね」
言いながら、吉羅はタブを開けると、コーヒーの缶を無造作に口に運んだ。
へー、珍しいもん見た、と思いながら、その様子を眺めていた香穂子の脳裏に、ふと最近よく目にするCMのワンシーンが浮かぶ。香穂子に小さな悪戯心が芽生える。
香穂子はすっと手を伸ばすと、吉羅の手から缶コーヒーを取り上げた。
「…日野君?」
怪訝そうに呟く吉羅を視界の端に捉えながら、そのままこくりと喉を鳴らして一口飲むと、香穂子は澄ました顔で一言。
「あ、意外に美味しいかも?」
そうしてコーヒーを何食わぬ顔で再び吉羅の手に戻すと、香穂子はチラリと男の表情を窺った。
内心ワクワクしながらそちらに視線を向けた瞬間、香穂子はがっくりと肩を落とす。吉羅は――
眉一つ動かすことなく、まったく何事もなかったかのように、平然とコーヒーを飲むのを再開していた。
相手は吉羅暁彦である。そりゃあ香穂子だって、何もあのCMの俳優さんのようなちょっと可愛い反応が返ってくるとは思っていない。
(でも…、もうちょっと何かこうさ…。せめて少しは驚くとか…)
きっと香穂子との間接キスなんて、この男に取っては虫がとまった程度にも感じていないに違いない。
それともCMの女優さんのように綺麗で大人っぽい人だったら、たとえ吉羅といえども少しは意識したりするんだろうか?
心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしてたのはきっと自分だけ。
(あ…、何かへこんできた…)
こんなアホな悪戯しなきゃよかったと香穂子がしみじみと後悔し始めた時。
不意に力なくだらりと垂れ下がっていた彼女の手が掴まれた。
力強い手のひらの感触に俯いていた香穂子が頬を染めて、ぱっと顔を上げるのと、香穂子の手を取った吉羅が彼女にコーヒーの缶を握らせたのは、ほぼ同時だった。
「…吉羅さん?」
香穂子と目があうと、吉羅はにやりと唇を歪めた。
「――テレビばかり観てないで、時には勉強もしたまえ、とたまには教育関係者らしいことも言っておこうか」
来週から試験期間だからね、と付け足すと、吉羅はあっけにとられる香穂子の頭にぽんと手を置いた。
そうして彼は一度だけ香穂子の頭をくしゃりと撫でると、では失礼、とさっさと踵を返した。
「へ? テレ…ビ?? ………あーっ!」
香穂子が叫んだ時には、既に長身の後ろ姿との間にはかなりの距離が出来ていた。
「何よ、わかってたんなら、のってくれたっていいじゃない…」
尖らせた唇から思わず拗ねたような呟きが零れたが、いや、彼がそんなことするわけないか、と思い直す。
「とゆーかこれ…」
香穂子は手の中の缶コーヒーに目を落とす。
「空き缶くらい自分で捨て…、ん? …空き缶、じゃない?」
一連の流れで手の方にまで意識がいっていなかったが、改めて意識を向けてみると少し重みがある。
試しに軽く振ってみるとちゃぷんと音がして、どうやら丁度半分くらい入っているらしいとわかった。
「……もしかして、くれた、のかな…?」
口調は最初から最後までいつものように淡々としたものだったけれど。
最後に頭を撫でてくれた時の優しい手つきを思い出す。
香穂子はにっこりと顔を綻ばせた。
「わーい、吉羅さんと半分こ」
えへへ、と頬を緩ませると、香穂子は早速飲み始めた。
さっきは緊張していて、本当は味なんか全然わかってなかった。
「うん、やっぱり意外と美味しい、かも」
改めて口に含んだそれは、ほんのり甘くて、ほろ苦くて、何だか今の自分の恋心のようだと香穂子は思った。
某缶コーヒーのCMパロでした(笑)
そのCMが好きで、見るたびに、あれの吉羅日野バージョン書きたいなーとずっと思ってたんですが、
別件でバタバタしてるうちに、やっと書ける時間が出来た時には既にCMは新バージョンになっていたという裏話が(笑)