バレンタインは甘くない!?
 それは、まだ少し肌寒さの残る如月の十四日。
 自室でつらつらと漢籍に目を通していたアクラムは、不意に弾かれたようにその端整な顔を上げた。
 心の隅を何かが掠めた。
 背筋を伸ばし、目を閉じると、神経を集中する。
 意識を向け、手繰り寄せたそれは一つの声だった。

(――神子が呼んでいる)

 文机の上の巻物を纏め、立ち上がると、二階厨子の上に置かれていた面を取り上げ、手早く身につける。

「フッ、しょうのないことだ。行ってやらねば、何刻でもあの娘は喚いておるからな」

 聞く者もとてないのに、誰にともなく言い訳するように呟きながら、階(きざはし)の下に揃えられた浅沓を履く。
 一瞬後。
 掻き消すようにその長身の姿は消えていた。










 一日一日陽が長くなっていく。
 梅の盛りも過ぎ、今は可憐な桃の花がはらはらとその淡い色の花びらを散らす。
 見上げれば淡紅色の桜の蕾も今にも綻びそうに膨らんで。
 頬を撫でる風はまだ冷たいけれど、空気には柔らかな春の匂いが混じり始めている。
 その空気を胸一杯に吸い込むと、自然と少女の顔に笑みが浮かぶ。

「――来て、くれるかな…?」

 何となく落ち着かなくて。
 今日は座って待たずに庭をぶらぶら歩く。
 人気(ひとけ)の無い荒れた庭は酷く静かで、時おり聞こえる鳥の囀り以外に物音はない。

  いつの頃からかあかねから連絡を取る時には、決まってこの荒れ果てた屋敷の庭に彼を呼び出すようになっていた。
 向うに用がある場合はあかねが独りでいる時にふらりと現れたり、土御門殿に遣いの式神を忍び込ませたりするのに、あかねからは連絡を取る手段が何も無いのは不便だよと口を尖らせると、お前はただ我が名を呼べばよいのだ、と彼は言って、知らなかったのか? と静かに笑った。
 不思議とそれで納得出来た。
 怨霊、龍神、四神等この世界にはもっと不思議な事柄がいくらでもあったし、それに時空を越えて人間を召喚したり、空間を移動したりする能力(ちから)を持つ彼の事だから、それくらい出来ても不思議はないような気もしたのだ。
 なので、つい、日常会話の続きのように自然な感じで、ケータイがいらなくて便利だね、と言ってしまったら、何だそれは? と訊かれたので、説明してあげると、興味深そうな顔で意外と熱心に聞いていた。
 案外好奇心の強い人なのかもしれないな、とその時初めて思った。
 この人を私の世界に連れていったら、どんな表情(かお)を見せるのだろう?
 髪や瞳の色で差別されることのない世界で、迫害を知らず育ったら、今頃どんな青年になっていたのだろうか?
 それ以来時折そんな事を考えるようになった。

(そう、それにこれ! これ見たら今日は何て言うかなぁ?)

 そっと自らの袖の中に手を差し入れて、そこにあることを確かめると、あかねは楽しげにうふふと笑った。
 今日の為に昨日一日がかりで作り上げたバレンタインの贈り物。
 モチロン京にそんな風習ないのは分かってのことだから、これは殆ど自己満足だという自覚はあった。

 でも!

「大切なのは気持ちよねっ!」

 拳を握り締める。
 あかね自身としては本当はやっぱりチョコレートが良かったのだけど、いくらなんでもそれは左大臣家のコネをフル活用しても無理だから、第二希望のクッキーを作ることにした。
 小麦粉と卵はこの京の都にもあったし、バターは醍醐(だいご)というバターオイルみたいな物が見つかったのでそれで代用した。
 甘味を蜂蜜で付けて、胡桃を混ぜると、香ばしい匂いを漂わせてさっくり焼きあがったそれはなかなかに美味しくて。
 食材調達に奔走してくれたお礼も兼ねて一番に味見してもらった藤姫にも好評だった。
 勿論、ラッピングにも気合を入れた。
 刀子で正方形に切った白い薄様の紙の上に同じように切った緋色の紙を角をずらして重ねると、その上に懐紙でくるんだクッキーを乗せる。
 丁寧に均等にひだを寄せながら、巾着のように包み込むと、口を金の飾り紐でギュッと縛ってリボン結びにする。
 縛った先の部分の紙を花弁のように開いて整えるとラッピングの出来上り。
 薄様の白い紙の下からほんのり緋色が透けるのが美しい。
 季節柄、桜の重ねを真似てみたのだが、赤い紙はアクラムを意識して紅ではなく緋色を選んだ。



 そんな事をあれこれ思い出しながら、南庭をぐるりと一周して元の場所に戻ったあかねはそこに待ち人の姿を見出し、目を輝かせた。
 袂から出した包みを後ろ手に隠して胸をドキドキさせながら近付くと、あかねの姿を認め、男の形の良い唇が微かに綻んだ。

「今日はどうしたのだ、神子よ?」

「うん、ちょっと…渡したい物があって…」

 渡したい物? と、怪訝そうに呟くアクラムの大きな手に、思い切ってパッと背中から取り出した包みを押し付けた。

「ほう。――捧げ物か?」

「違う!お・く・り・も・の」

 又、もぉ、この人は、と、いつもながらの尊大な物言いに思わずキッとなって言い直したあかねを見て、彼はクスクスと笑っている。
 どうやらわざとのようだ。

「――だが、何故急に?」

 不意に笑いを途切れさせたアクラムに真面目な声で問われ、あかねは薄っすらと目許を赤らめた。

「それは…」

一年に一度女の子から、好きな男の人に贈り物をして想いを告げる日

 なんて恥ずかしさもあったけど、それ以上に敵同士で忍び会っているこの状況では言い難かった。
 だから。

「いいからいいから。それより早く開けてみて〜」

 そう言ってにっこり笑って、袖を引いてみたのだが、やっぱりというか当然というべきかそれでこの男が誤魔化される筈もなかった。
 逆に何かあるなと思われてしまったようで。
 ぐい、と引き寄せて、あかねをその腕の中に閉じ込めると、ぎゅっと華奢な躰を抱き締める。

「この私を誤魔化せると思ったのか?」

 笑い含みの声で、低く耳元で囁かれ、躰が震える。

「ちょっ…苦しいよ、アクラム! 放してよ〜!」
 真っ赤な顔をして腕の中で懸命にもがいたが、やはりびくともしない。

「言うまで放さぬ」

(えええええ!?)

 明らかに楽しんでいる口調でキッパリと言い切られ、あかねは焦った。
「べ、別に意味なんか無いってばぁ。ただ、あげたかっただけ…きゃっ!」

 ぺろりと首筋を舐められ、飛び上がった。

「今まで一度として、そんなことしたことがないのだ。何か意味があるのであろう? ん?」

 そう言ってあかねの顔を覗き込むので、顔を背けると、今度はその反らした首筋に顔を埋める。

「やっ…」

 跡が付くほどきつく吸われて、吐息が洩れる。
 まだ言わぬか、ならば、と言って、楽しげにフフフと笑われ、あかねはとうとう観念した。
 これ以上何かされたら、躰が持ちそうにない。

「…わかった。言う、言いますぅ」

 涙目で言うあかねに満足そうに頷くとアクラムはやっとその腕を緩めた。





 かさりと包みを開くとふわりと甘い匂いが漂う。

「ほう。これがその習わしとやらの贈り物か」

 膝の上の菓子を見下ろしながら、アクラムが興味深げに呟いた。

「うん! ねぇ早く食べてみて」

 隣に座ったあかねがわくわくと促すが、彼は細い顎に手を当てながら、そうだな、とだけ言ったまま。
 すぐに感想を聞きたくて、この場で開けてもらったのに〜、と、焦れたあかねが、一つ摘んで小さく割って、男の口許に運ぶと摘んだ指先ごと飲みこまれる。

「!?」

 驚いたあかねが引くより早く男の手がそれを捉えた。
 白魚のような指を舌が絡め取り。

「…あ…っ…」

 指と指の間の薄い皮膚をねっとりと愛撫され、背筋をぞくりとしたものが駆け抜ける。

「…やめ…」

 無駄と知りつつ、洩れた言葉だが、予想に反してふっと力が緩んだ。
 慌てて手を引いて胸元に抱え込んで、真っ赤な顔をして俯いたあかねの耳にしゅるり、と微かな音が響いた。

「…どうした?」

 言葉と共に頤に指がかかり、軽く顔を上げさせられたあかねは、間直で覗き込むように彼女を見下ろす端整な美貌に息を呑んだ。
 何度見ても、未だに慣れることの出来ぬ美しい顔が艶やかな微笑を浮かべ、あかねを見つめている。

(あ、そうか。さっきの音って…)

 急激に頬が熱くなるのを意識しながら、ぼんやりと頭の隅でやっとそれに思い至る。

「な、何でもないよ。それよりお菓子どう? 美味しかった?」

 緩く頭を振って男の指を外すと、動揺する気持ちを隠すように慌てて笑顔を作り、早口に言う。

「――そうだな。だが…」

 そこで一旦言葉を切ったアクラムは、少女の腰に腕を回し、ぐっとその躰を引き寄せた。

「捧げると言うのなら、こんな菓子などではなく、そろそろその身を捧げてみてはどうだ?」

 薄い笑みを浮かべ、低く囁かれた言葉に心臓が止まりそうになる。

「あ…」

 あかねの唇が震えた。
 冴え渡る冬空を思わせる深い蒼の眼差しと彼女の視線が絡み合い、目を逸らすことが出来なかった。

 ずるいずるいずるい。
 自分がいくら頼んでも、普段は決して外してくれやしないのに、こんな時ばっかりこの人は仮面を外すのだ。
 絶対に意識してやってるとしか思えない。

 確信犯だと分かっていて、その手に乗ってしまうのは悔しかった。
 それに。
 そうなってしまったら、きっともう気持ちは止められない。
 でも…。

「ずるいよ…」

 やっとの思いで吐き出した声は自分でも驚くほど掠れていた。

「――何がだ?」

 何もかも見透かしてるくせに、形の良い眉を片方だけ上げながら、平然とそんなことを言う憎らしいけど大好きな男(ひと)に。

「…ずるいよ」

 もう一度、掠れ声で囁くと。
 あかねはゆっくりと震える手を男の首に回した。










 首筋に触れた小さな手の温もりが心地良かった。
 大きな瞳が恥らうように伏せられて、少女が躊躇いがちに彼の方に顔を寄せる。
 少女の甘やかな吐息を感じた時、彼も又、自然に薄いその瞼を下ろしたのだった。
 次の瞬間。

「――!? なっ…」

 鼻の頭を滑る冷たい感触にギョッと目を見開くと目の前には既に立ち上がって、クスクスと笑い転げている神子。

「何をする!?」

 濡れた鼻を押さえて、憮然としているアクラムに、神子クスリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 そして。

「さっきのお返し♪」

と言うと可愛らしくぺろりと舌を出してみせたのだった。

「こいつ…」

 苦笑しながら伸ばされた腕は、予期していたらしく、珍しくかわされた。
 腕の中をすり抜けた少女は、そのまま少し走って用心深くもアクラムから充分距離をとった所で振り返ると、相変わらずの笑顔のまま、だが、キッパリと彼の予想外の言葉を明るく告げる。

「今日はもう遅いし、私そろそろ帰るね〜」

「な、に…?」

 思わず腰を浮かしかけるアクラムに、あかねは、あ、それちゃんと全部食べてね〜、と付け足すと、またね♪ と手を振って、軽やかに駆けていってしまった。

 唖然としたのはほんの一瞬。

「……やられたな。この私が…」

 低く呟いて。
 彼の手をすり抜けてまんまと逃げ去っていく少女の軽い足音を聞きながら、込み上げてくる笑いに肩を揺らす。
 真っ赤な顔をして固まるところまでは予測済み。
 その次は、怒り出すか手の内に落ちるかそのいずれかだろうと読んでいたのだが、まさか…。

「…こうくるとはな」

 ぽつりと呟いて、苦笑でも冷笑でもなく楽しげに彼は笑う。
 思っても見なかった反応に自分としたことが毒気を抜かれたようだと思うと我ながら何だかおかしかった。
 ふと、神子の持ってきた菓子が目に止まり、一つ摘むと物珍しげにじろじろと眺める。

「――確か想う男への贈り物だとか言っていたな…」

 神子の世界の風習についてつっかえつっかえ説明していた時の少女の耳まで真っ赤になった初心(うぶ)そのものといった顔が浮かぶ。

「あのように見えて存外手強いのかもしれぬな…いや、初心故にこそあの反応か。
――だが、次は逃さぬぞ」

 そう言って不敵に笑うと、手にしたままだった菓子を口に放り込む。
 神子の手作りだというその菓子は、少女の人柄そのままの。
 暖かく優しい味がした――










「あ〜、危なかったぁ。 後、もー、少しで、ふらふら〜っていっちゃうとこだったよ〜」

 屋敷の門を抜けた所で漸く足を止めると、あかねはふうっと大きく息を吐き出した。
 まだ頬が熱いのも、心臓がドキドキするのも、決して走ったせいばかりではないだろう。

「だいたい、あの素顔は反則よね〜。
それから耳元で囁かれると、ゾクゾク〜ってきちゃう絡みつくようなあの声も。
あ、それから、後……」

 そう唇を尖らせて、第三者が聞いたら、惚気かい!? ツッコミを入れたくなるようなことを大真面目に次々と並べ立てているあかねは知らない。
 その頃アクラムが、楽しげにこんな算段をしていたことを。

「…倍返し…いや、三倍返しだな。フフフ…」

 それが贈り物へのお返しなのかはたまた今日の仕打ちへの仕返しなのか。
 あかねが身を持って知るのは、また後の話。






update : 02.2.14


もー何がなんだか…(笑)つーか、これじゃアクラムxあかねじゃなくて、アクラムvsあかねっぽいような…(笑)

遙か1も遙か2も、本編は旧暦の世界なので、これも風景は春のものとして描写していたら、
八割方書き上げた段階で見た追加のバレンタインイベントが思いっきり雪景色で驚いた。
何でやねん? 旧暦の2月半ばと言ったら、そろそろ桜が咲いてる頃だろう。
2月12日に神泉苑で嵯峨天皇が桜の花宴した記録も残ってるんだしさあ…。

と色々並べ立てたのは、今更書き直す気がないから、その言い訳(笑)




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