春怨
「わあ、いいお天気!」

 思わず歓声を上げた一瞬後、こっそりと床(とこ)を抜け出して来ていたことを思い出した望美は、慌てて口を押さえると周囲を見回した。
 夕刻まで眠ると言っておいたから、暫く朔がこの対に渡って来ることはないとは思うが、一応用心しておくにこしたことはない。
 彼女の心配してくれる気持ちはありがたかったが、望美が風邪をひいて寝ついてもう一週間である。
 熱も殆ど下がり、だいぶ調子も良くなってきていたし、寝てるのにも、もう飽きてしまっていた。
 少し渡殿の方の様子を窺い、誰も来る気配がないと安心すると、望美は高館の濡れ縁にすとんと寝衣の上に一枚衣を羽織った身を落ち着かせた。

 心地良い春の空気を胸いっぱいに吸い込むと庭の前栽に目を遊ばせる。
 穏やかな春の風が望美の長くさらさらした髪を揺らしながら、通り抜けていく。
 束稲山の桜はもうすっかり終わってしまっていたけれど、庭にはまだ春の花々が咲き零れていた。
 中でも、盛りの藤の見事さは、さすがここが奥州藤原氏ゆかりの邸だと改めて思い知らされる。
 不意に、それまで微笑んでいた望美の顔が翳った。
 暖かな春風に揺れる下がり藤の花房は、どうしても一人の男へと望美の思考を導いていく。

「そりゃ忙しい人なのはわかってたけどさ…」

 望美は、はぁ、と深く溜め息をついた。
 銀から多分報告ぐらいは受けているだろうに、彼女が寝込んでいたこの一週間、薄情な恋人からは本人はおろか見舞いの文一つ届いてはいない。
 それ以前に、考えてみれば押しかけて行くのは、いつもいつもいつも望美の方からで。
 帰りに一応送ってこそくれるものの泰衡の方から高館まで彼女を訪ねてきたことは皆無と言ってもいい。
 元気な時にはさほど気にしたことはなかったが、今はそんなことを思い出すだけで、めっきり気分が沈んでしまうのはやはり病で柄にもなく気が弱っているからだろうか…?

「まさかこんな冷たい人だとは………………思ってたけど…」

 望美はうう、と小さく唸った。
 それにしても、すったもんだの末に漸く想いを通じ合わせて、望美がこの世界に残ることを決めてからまだ半月である。
 相手の性格が性格なので、それほど甘い扱いは期待してなかったけれど。でも。
 ガシッと両の拳を握り締める。

(普通なら、今が付き合い始めの一番ラブラブで盛り上がってる時期じゃない…!)

 あの男に『普通』を期待すること自体間違ってるような気がしないでもないけれど。
 しかし、最初からこれではやはり先が思いやられる。

「あーあ、やっぱり元の世界へ帰ろうかなぁ」

 口の端から溜め息と共に零れ落ちた言葉は、決して本気ではなかったのだけれど。

「…成程。野の花とは俺も銀も欺かれたものだな。
――白龍の神子とは銀が言うような野辺にひたむきに咲く可憐な野の花などではなく、僅か半月で心変わりなさるような紫陽花の如く移り気な女だったらしい」

 突然響いてきた酷く不機嫌そうな声に望美は跳び上がった。

「だ、だって、泰衡さんが薄情なんだも…って、このもっの凄い不機嫌そうな声は泰衡さん!?」

 慌ててきょろきょろと辺りを見回すが、長身で黒ずくめで常に堂々としたどこにいても無駄に目立つその姿は見当たらない。

(空耳かなぁ…。泰衡さんのことばっかり考えてたから…)

 代わりにいつの間にか傍らに一羽の小鳥がとまっていることに、望美は気がついた。
 20センチぐらいだろうか。全身真っ黒で、お腹のところだけ白くなっていて、そこに黒の三角斑が並んでいる。
 望美を凝っと見上げている真っ黒なつぶらな瞳が可愛らしい。

「わあ…」

 驚かさぬようにそぅっと手を伸ばす。だが、その手は再び聞こえてきた男の声に空中で凍りついたようにピタリと止まった。

「で、あなたはこんな所で何をし」

 何故ならその声は確かに目の前の小鳥から聞こえてきたのだから。

「ええええええっ!? ま、まさか泰衡さん!?」

 瞠目して漆黒の姿を凝視する望美の前で、小鳥の姿をしたそれはフンと鼻を鳴らした。

「何を驚いている。あなたの八葉には陰陽師がいたのだ。
式神(しき)ぐらい珍しくもないだろう?」

「あ、はい、すみません。景時さんのはサンショウウオだったから、鳥の式神って、私見るの初めてでわからなくて…」

 まじまじと小鳥を見下ろしながら、望美が慌ててそう言うと泰衡は何故か絶句した。

「……………山椒魚?」

「ええ。のたのたした動きがとっても可愛くて」

 にっこりと笑う望美に小鳥の嘴から溜め息が零れる。

「…色々と変わった男だと聞いてはいたが…」

 この男に言われたら景時さんも浮かばれまい(死んでない)、と咄嗟に独りツッコミをしながら望美は思ったが、次の瞬間彼女の脳裏に、嬉しそ〜うに鼻歌を歌いながら、何故か手袋をはめたまま洗濯をしているヘソ出し男(27歳)の姿が浮かぶ。
 一緒にいるうちに随分と慣れたけど、そう言えば確かに初対面の時はそれなりに衝撃的だったかも…。
 あはは、と乾いた笑いを洩らす望美を一瞥すると、それはともかく、と泰衡の声が鋭さを帯びる。

「話を戻すが。あなたは一体こんな所で何をなさっておいでか?
確か神子殿は病を得て臥せっていると俺は銀から報告を受けているが?
それをそんな薄着で、こんな風が吹きつけるような場所をフラフラと…」

 皮肉をこめた口調で、とうとうと叱責され、望美はムッと顔を顰めた。

「だって、寝てるの飽きちゃったんだもの」

「だからといって」

「何よ、ずっと私のこと放置してたくせに。いきなり現れたと思ったら、お説教!?」

 この一週間ずっと寂しかったのに、人の気も知らないで。

「俺が多忙なのはあなたとてご存知のはずだろう」

 声を荒げる望美に、泰衡の声音も鋭さを増す。
 今(多分)柳ノ御所にいる彼の本体は、絶対眉間に盛大に皺を寄せているに違いないと望美は思う。

「いくら忙しくたって文一つ書く時間ないなんて信じられません!」

「仮に送ったところで、あなたはこの世界の文字など読めぬだろうが」

「もう、かなり読・め・ま・すー! 朔に特訓してもらって、寝込む日まで毎日手習いかかさなかったんだから」

 どうよ! と胸を張る望美に、ほう、それは失礼した、と泰衡が欠片も失礼だったなんて思っていなさそうな嫌味たらしい口調で答える。

  (うわ、ムカつく!)

 この小鳥、いっそ焼き鳥にしてやろうかと望美が剣呑な目で小鳥をギッと睨んだ時、思いがけない言葉が彼の口から発せられた。

「だが、文は添えずとも、見舞いの品なら遣わしていただろう。
放置とまで言われるは心外」

「へ?」

 寝耳に水とはまさにこの事である。

「泰衡さん、今何て…」

 目をまんまるにした望美に、彼は苛立ったように繰り返す。

「だから、見舞いの品を…」

「嘘…。私、受け取ってないです…」

「何?」

 呆然と呟く望美に、泰衡も驚いたようだった。

「本当に何も届いてないのか? 野苺や、咳(しわぶき)があると聞いたので滋養と潤肺効果のある枸杞など遣わしたのだが…」

「あ! 枸杞の実なら、譲くんが作って持ってきてくれたお粥に入ってました…!野苺も、食後に美味しくいただいたし。
…あれ泰衡さんからだったんですか!? 譲くん、何も言ってなかったから、私、てっきり、その…市か何かで買ってきたのだと…ばっかり…」

「…………」

 雄弁な沈黙に迎えられ、望美の顔に冷や汗が浮かぶ。

(ち、沈黙が痛い。うわーん、譲くん、何で言ってくれなかったんだろう?)

「では無聊をお慰めする為に、お届けした絵巻物も、当然、あなたには哀れな贈り主のことなど伝わってはいないのでしょうな」

 チクチクと無数の棘が望美を突き刺す。

「ええっ! あれってヒノエくんがくれたんじゃ…。あ、でも、そういえばヒノエくんは部屋に持ってきてくれただけで、別に自分からだとは言ってなかっ…た…。
あはは、道理で熊野から取り寄せたにしては早いなとは思ってたんですよね〜」

 あはははは、と笑ってみるが、答えはない。

「た、多分ヒノエくん、うっかり言い忘れたんですよ」

 一応フォローしてみるが、日頃から『姫君が泰衡の奴に愛想を尽かしたら、いつでも熊野に浚っていくよ』などと公言しているヒノエだけに、それはないと望美は確信していた。
泰衡にしても、それは同様だったようで、ああ、あなたが問えば、勿論あれは何食わぬ顔でしれっとそう答えるでしょうな、と限りなく冷ややかな声が返ってきた。

「う。…ごめんなさい。ちゃんと誰からか訊かなかった私が悪かったんです」

「いや、確かにあなたは抜けている上に、思い込みが激しく、怒りっぽいが、この場合謝るべきはあなたではない」

(うううう)

 しゅんと俯いていた望美は、この追い討ちをかけてるんだか、フォローしてるんだかよくわからない泰衡の言葉に、顔を上げていいのかこのままでいいのか迷った末に、益々深く俯いた。

「だが、人の不実を責める前に、まずは事実関係ぐらいは先に確認してからにしていただきたいものだな」

「はい…」

 更にしゅん。望美の頭は、今やおでこが膝に届きそうなくらい深々と沈み込んでいる。

「……本当は…」

 不意に彼の声のトーンが変わり、望美は俯いたままピクリと眉を上げた。

「今日様子だけ見て、すぐに帰るつもりでいた…」

(え…今…!?)

 望美が弾かれたように顔を上げる。

「や、泰衡さん、今」

 しかし、勢い込んで問いただそうとした望美の言葉は続く彼の台詞で意識から飛んでしまった。

「だが、あなたが…」

 ふいっとそれまで望美の方を向いていた小鳥の頭が、そっぽを向くように逸らされる。

「――聞き捨てならないことをおっしゃっていたから」

 酷く苦い声で吐き捨てられた言葉に、望美は息を呑んだ。

『やっぱり元の世界へ帰ろうかなぁ』

 瞬時に先ほど彼に声をかけられる寸前に呟いていた己が言葉が蘇り、青ざめる。

「ち、違います!」

 思わず両手で小鳥をがばっと掴むと、顔の高さに持ち上げて、その目を介して彼女を見ているであろう彼と視線を合わせようと覗き込む。

「違うんです! あれは本気で言ったんじゃなくて…。
ただの愚痴って言うかぼやきって言うか…」

 そんなこと出来ない。出来るわけない。それは誰よりも望美自身が一番わかってる。

「寂しかったから…つい…」

 もし、本当に離れて帰ってしまったら、寂しいなんてものじゃ済むわけないのに。

「本気じゃないから…だから…っ!」

 泣きそうな気持ちで必死に言い募る。あなたに、あんな声、出させたかったわけじゃない。


 ややあって。
 そのまま再び俯いてしまった望美の耳に、小さく息を吐く音が聞こえた。

「わかったから、少しその手を緩めていただけるとありがたいのだが。
――俺の式神を握り潰す前にな」

「え…」

 言われて我に返って手元に視線を落とせば、無意識にぎゅうと力の篭った望美の手の中で小鳥が苦しそうにバタバタともがいている。

「きゃあ!」

 慌てて手を開くと小鳥は逃げるようにバサバサと一度空中に飛び上がった後、再び望美の膝の上に舞い降りた。

「ご、ごめんなさい…」

「まったくあなたと言う方は…」

 苦笑混じりのその声は呆れているようでいて、どこか温かい。
 その声音の温もりに励まされて、望美も、小さな笑みを浮かべる。
 そっと手を伸ばして、漆黒の翼を撫で、ごめんね、と今度は小鳥に対して謝っていた望美はふと先ほど中断された質問を思い出した。

「ねぇ、泰衡さん、さっき『今日“も”、すぐ帰るつもりだった』って言いましたよね?
それって」

「お前の聞き違いだろう」

 望美の言を遮るように返されたその不自然なほど早過ぎる否定に、彼女はにんまりと微笑んだ。
 心の中にポッと暖かな何かが灯ったような気がした。

「嘘っ、絶対言ったもんね!」

 鮮やかな微笑を浮かべる望美に、不機嫌そうな泰衡の声が投げられる。

「そんなことより、もうそろそろ床(とこ)に戻れ。俺もいい加減仕事に戻らねばならん」

(ああっ、話逸らした〜)

 ずるい、と思うが、仕事に戻らなきゃいけないと言うのも、先ほどから費やしてくれている時間を思えばきっと本当。
 だから、今回はこれ以上ツッコまず大人しく退いてあげることにした。

(思いがけず嬉しいことも色々わかったし…)

 わかりました、とこくりと頷く。

「思ったよりも長居してしまったようだ。――躰は冷えてないか?」

「大丈夫ですよ。今日は日差しも結構暖かいですし」

 望美は安心させるように、にっこりと笑いかけた。

「何か必要な物があれば、何なりと銀に申し付けるがいい」

「はい、ありがとうございます」

「では、これで失礼する」

 ばさりと漆黒の翼が広がる。

「あ…」

「ん? 何だ?」

「…あの…また明日も、来て、くれますか?」

 思ったよりもおずおずとした声が出てしまい、ほんのりと気恥ずかしくなって頬が染まる。
 数泊の沈黙。
 ドキドキしながら見守っていた望美は、小さな溜め息の後、いかにも仕方なさそうに、ぼそりと呟かれた言葉に顔を輝かせた。

「…見張っていないと、あなたはすぐに無茶ばかりなさるからな」










「まあ、望美! どうしてこんな所にいるの? 寝てなきゃだめじゃない…」

 急ぎ足で濡れ縁を自室に戻るべく歩いていた望美は、親友の声にギクリと背後を振り返った。

「ちょ、ちょっと気分転換に…」

「風邪は治りぎわが肝心なのよ。ぶり返したらどうするの?」

「ごめん、朔〜。寝てるの飽きちゃって、つい…」

 えへへ、と笑う望美に朔は、仕方のない人ね、と困ったような笑みを浮かべた。

「あら…」

 不意に朔は、望美の顔を覗き込むと額に手を当てた。
 やっぱり、と呟き、頷く朔を疑問符を浮かべて見つめていた望美に、彼女はにっこりと微笑みかけた。

「今のあなた、随分顔色がいいから、もしやと思えば…熱、すっかり下がってるわよ」

「え、本当?」

「ええ、このところ体調は少しずつ良くなってきてるのに、あなたってばずっとふさぎこんでいたみたいだから心配してたのよ。
でも、もう体調も、気持ちも、だいぶ回復したみたいね。
これなら明日には床を上げられるのではないかしら?」

 それを聞いて望美は額に拳を当て、ちょっと考えた。

「う〜ん、念のため明日までは寝てようかなぁ…」

 朔が意外そうな顔をする。

「あら、どうした風の吹き回しかしら? あなたは一日も早く外に出たくてうずうずしてたと思っていたのだけれど…」

「うん、ちょっとね」

 にっこりと笑う望美に、朔が首を傾げる。

「その意味深な笑顔、気になるわね。こら、望美、白状しなさい」

 くすくすと笑いながら、朔が望美に飛びつく。

「ええっ、なんにもな…って、わー、ちょ、朔! くすぐるのは反則だよ〜」

 高館の庭に鈴を転がすような明るい少女たちの笑い声が響き渡る。
 その楽しげな声を吹き抜ける一陣の春風がさらっていった。




update : 06.10.30


『春怨(しゅんえん)』 若い女性が、春の気に感じて物思いにふけるようす。男のつれなさをかこつ女心のこと。

泰望阿弥陀〜今宵見える月〜」様へ、お題「春の平泉」で投稿させて頂きました。大好きな泰望の企画に参加出来て嬉しかったですv

「舞一夜」の泰明式神イベントを見て、泰衡さんにも式神イベントがあったらなー、とあれこれ妄想してるうちに出来た話(笑)
しかし、この式神ネタ、泰衡が元々ああいう性格の上に、今回は表情も仕草も使えず、台詞と声音だけで彼の感情を表現しなければいけないので、難しかったです。
楽しかったけど、このネタ、もう二度とやらない。ううう。





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