好き心(しずかちゃん的お約束)
 よく手入れされた庭園の池のほとりに男が一人佇んでいた。
 静かな水面が映し出すのは、青い空に浮かぶ白い雲と池のほとりに咲く花々、そして男の端整な美貌だけだった。
 時折穏やかな風が吹いて、男の緋色の衣の裾を揺らし、周囲の草をざわめかせる。

 風が凪いだ頃を見計らって、ついと男が水面に手を翳した。
 小さく口の中で呪を唱えると、静かだった池の面がざわざわと波立ち始め、やがてゆっくりとおさまっていく。
 静かな笑みを浮かべて、男はそれを眺めていた。
 さざなみが静まった時、水鏡が映しだすのは男の冷たく整った美しい顔ではなく、一人の少女の姿であるはずだった。
 このところ、時折、こうして水鏡を使って、標的である龍神の神子の様子を探ることが鬼の首領である彼の密かな楽しみとなっていた。
 だが、いつの間にか静まっていた池の面に頃合良しと視線を向けると、アクラムは彼らしくもなく目を剥いた。

「――!! こ、これは…!?」

 何と龍神の神子は……





 ―――入浴中であった。








 ばしゃりと水音が辺りに反響して消えていった。

「ん〜、いい気持ち♪」

 暖かな湯の中であかねはご機嫌で組んだ両手を前方に伸ばした。
 浴槽の中にいるせいで、胸の上部までしか見えないが、丸みを帯びた華奢な 肩やほんのりと上気した頬、髪をアップに纏めているせいで、普段は見えないうなじが覗いているのが、なんともいえず色っぽい。
 湯を弾く張りのある水々しい素肌は年増のシリンなぞとは一味違う、まさしく若い娘ならではのもの。

「そろそろ上がろっかな♪」

 浴槽の縁に手をかけると、あかねは湯から出る為に立ち上がりかける。
 アクラムがゴクリと唾を呑んだその時―――

「神子様ぁ、お湯加減は如何でございますかぁ?」

 星の一族の姫が現れたので、あかねは上げかけた身体を再び浴槽の中に沈め、そちらへ顔を向けた。
 思わず舌打ちするアクラム。

「ぬるいようでしたら、もう少し釜殿から熱いお湯を運ばせますので、ご遠慮なくおっしゃってくださいませね。
大事な神子様がお風邪でも召されたら大変ですもの」

「ううん、大丈夫だよ、藤姫。丁度いいよ」

「ならば、よろしいのですが…」

 微笑むあかねにそう言いかけた藤姫の表情が不意にハッとしたように引き締まった。
 足元の桶を小さな手が素早く拾い上げる。

「そこですわっ!」

 次の瞬間それは、鋭い気合と共にぶん投げられた。

「ふ、藤姫……?」

 天井にぶつかって、スコーンと景気のいい音を響かせた後、几帳の向うに転がり落ちた桶の後を追うように、ダダダッとそちらに回り込んだ藤姫をあかねは呆気に取られて見送っていた。





 僅かな後、桶を片手に首を傾げながら、藤姫が戻ってきた。

「突然どうしたの、藤姫ちゃん? いきなりあんなことするから、私、ビックリしちゃったよ〜」

「驚かせてしまったようで、申し訳ございません。
それが…先程、不意にあちらの方角から邪悪な気配を感じましたの。
それで、てっきり友雅殿でも忍び込んだのかと思いまして…」

「えええっ! と、友雅さんが!?」

 とっさに両手で自分の身体を抱くようにして、あかねは胸を隠した。
 その顔が真っ赤に染まっている。

「いえ。それが、どなたもいらっしゃいませんでしたの。
…おかしいですわね。確かに何者かの気配を感じましたのに…」

 頬に手をあてて、少しの間考え込んでいた藤姫は、やがて顔を上げると、とんでもないことを言い出してあかねをギョッとさせた。

「そうですわ。これからは念の為、神子様のご入浴中は几帳の向うに女房を配置して見張りに立てることに致しますわ。
それから、泰明殿にお願いして、神子様のお部屋だけではなく、これからはこの湯殿の方にも結界を張って頂くことに致しましょう」

(そ、そんなの恥ずかしいよ〜)

「そ、そこまでしなくても…。
あの〜、さっきのって藤姫ちゃんの勘違いってこともあるんじゃ……」

 おずおずとしたあかねの抗議はキッパリとした口調で遮られた。

「いいえ、そんなことはございませんっ!
それとも神子様はわたくしを信じてはくださらないのですか?」

「…………」

 そう言われてしまってはもう何も言えないあかねであった。






 さて、藤姫の取った行動にあかねと同じくらい――いや、あかね以上に驚いたのはアクラムであった。
 池の縁に手をつき、身を乗り出すようにして、水面を覗き込んでいた彼は突然飛んできた桶…そのものではなく、藤姫が桶に込めた念のような物…の直撃を受けて、引っ繰り返った。
 かつて真秀なる庭で、流鏑馬の名手頼久の矢すら片手で防いだ男と同一人物とは思えぬ失態にこの時の彼の熱中ぶりが窺える。

「――痛。…星の姫め、小癪な真似を……」

 赤くなった額を押さえながら、慌てて起き上がり池の面を覗き込む。
 だが、既に術は破れ、水面が映しているのは元の青空だけとなっていた。

「クッ…おのれ、星の一族め。どこまでも、我を阻むのか……」

 アクラムは悔しそうに唇を噛み締めた。




 こうして、鬼の一族と星の一族との確執は、この日、一方的に深まったのであった。




update : 01.10.12


………お館様ごめんなさい(逃げっ!)

副題は分かる方だけ分かってくだされば…(笑)





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