胸を焦がすは
 深山幽谷。
 京より離れた深い山間(やまあい)にその地は存在した。
 周囲を強い結界に阻まれ、常なる人の身には行き来することはおろかその存在を感知することさえ適わぬという。
 鬼の一族の隠れ里。

 小さな町屋が身を寄せ合うようにして建っているごく小規模な集落のその一番奥まった場所に一軒だけ他と様相を異にする建物があった。
 唐門に周囲には築地塀をぐるりとめぐらし、小さいがよく手入れされた庭を持つその屋敷は一族を率いる代々の首領の住まう物。
 その屋敷の母屋に氷の彫像のような冷たく整った容貌の男が物憂げに座っていた。
 傍らに侍る白拍子装束の女が脇息に軽く手を付いて支えた男の左腕にそっと膏薬を塗り、丁寧に裂いた布を巻いていく。

「傷は順調に回復しております。もう間も無く元のように動かせるようにもなりましょう」

「……うむ」

 捲り上げていた直衣の袖を直して差し上げながら、女は敬愛する主の横顔を熱のこもった目で見上げた。

「ほんに筋を痛めてなくて、ようございました。
まことに、あの時はこのシリン、心の臓が止まるような心地が致しましたもの」

 痛めぬように、そっと男の手を取り、愛おし気に自らの頬に押し当てると、シリンはギュッと目を閉じた。
 その瞳には涙さえ滲んでいたが、男の顔には何の表情も浮かばぬまま。
 突如、大きな気の乱れを感じ、慌てて駆けつけた彼女の目に綺麗な顔を苦痛に歪め、血塗られた腕を押さえる主の姿が飛び込んできたあの時の驚きと胸の痛み。

「それにつけても憎きは、八葉……」

 甦る感情が噛み締めた唇の間から押し殺した言葉となって零れ落ちる。

「そうだよ! 八葉の奴ら許せないよ! お館様に傷を負わせるなんてさっ!」

 独り言めいた呟きに間直から思わぬ賛同の声が上がり、ハッと目を見開く。
 いつの間にか先ほどまで濡れ縁に出て、庭を見ていた筈のセフルがすぐ側に立っていた。
 握り締めた拳、紅潮した頬、つりあがった猫のような瞳は爛々と輝き、彼の怒りの程を表している。
 だが、幼い、それ故に真っ直ぐな怒りにも男の表情はやはり変わらずどこか他人事の様で。
 ドスンと乱暴に腰を下ろし、膝を抱えたセフルの癖のない金の髪を無事な方の手で無意識にくしゃりと撫でながら、……八葉か、と、それまでどこか上の空だったアクラムがぽつりと呟いた。

「神子を守る男共。そのあり様自体理解できぬが、神子と八葉は私には見えぬ力のようなものでつながっている」

 セフルから戻した手がそのままそっと優美に、細い顎に当てられた。
 考え事をする時のアクラムの癖。袖口から覗く白い指先。

「ほう。神子と八葉の間にはその様なつながりが……?
それはなかなかにおもしろいかもしれませぬな」

 隅に控えていたイクティダールが口髭をしごきながら、興味深そうに口を挟む。
 だが、その言葉も彼に届いているのかいないのか……。

「まことに…何故こうも胸が焦がされるのか……?」

 当惑しているような声色。不快気に顰められた細い眉。

「この手でズタズタに引き裂いてやりたくてたまらぬわ」

 ゆっくりと口角が上がり、鮮やかに凄惨な微笑が刻まれる。
 彼の仕草一つ一つがまるで切り取られたかのように鮮明に彼女の心に焼きついて、シリンの気持ちをざわつかせる。
 それを振り払うように彼女は殊更明るい声を出した。

「まあ、お館様ったら」

 華やいだ笑い声を立てる。

「いやですわ、その仰りよう。それでは、まるで……」

(……まるで…!?)

 不意に笑顔が凍りついたのが自分でも分かった。
 何気なく口にしようとした己自身の言葉に突如頭から冷水を浴びせかけられたような気分になり蒼ざめる。

(――まさか。そんな馬鹿な…。でも……)

 疑念と否定を繰り返すばかりで思考を上手く取り纏めることが出来ない。

「お、お薬湯の用意が出来たかどうか見てまいりますわね!」

 混乱する頭を抱えたまま、気付いた時には急ぎ足で部屋を退出していた。
 突然立ち上がった彼女にイクティダールとセフルが唖然としたように顔を見合わせたが、物思いに沈む主が気付く様子は無かった。





 やっと渡殿まで辿り着くと、その場にガックリと膝をついて頭を抱えた。

(嫌だ、認められない。そんなの認められるもんか! ――でも…)

『いやですわ、それでは、まるで……』

 脳裏に先程の己の台詞が甦る。
 自分はこう言おうとしたのではなかったのか。

 そう――
 それでは、まるで、嫉妬してるようではございませぬか、と―――

 口にしなかったのは、本人の意識せぬ感情を指摘して主の不興をかうのを恐れたのではない。
 ハッキリと言葉にし、名を与え、形を与えることで、想いを確かな物にしてしまうことをこそ自分は恐れたのだ。

 ああ、なんてことだろう。

 長い金の髪を乱暴に掻き毟る。
 あの御方が神子を龍神を呼ぶ為の単なる道具として望んでおられると思っていた時でさえ、この胸が焼けつくような心持ちがしたものを、それを…。
 龍神の神子などあの時、殺してしまえばよかったのだ。
 弄って遊んでなどおらずに、捕らえて、すぐにでも殺してしまえばあの憎らしい冶部小丞に奪い返されることもなく、今、あの御方のあんな表情(かお)を見ることもなかった筈なのに……。

 ――殺してやる。
 あたしからお館様を奪おうとするなんて許せない。
 あんな小娘、今度こそ必ず殺してやるよ!
 でも……

 ぎり、と音がする程強く唇を噛み締めると塩辛い味が口中に広がった。








「うわっ! ビックリした! 何でこんなとこに座りこんでるんだよ!?」

「……セフル?」

 頭上からの声に緩々と顔を上げる。
 どれほどの間こうしていたのだろう。
 辺りは日もすっかり落ち、もうとっくに釣灯篭に火を入れなければいけない時刻は過ぎている。
 ぼんやりとそんなことを考えていたシリンはセフルのギョッとしたような声音で我に返った。

「何だよ、お前…。――泣いているのか!?」

「なっ…!?」

 慌てて手をやった頬は確かに濡れていて、それで初めて自分が泣いていたことを悟り、驚愕する。
 グイと手の甲でそれを拭いながら、立ち上がり、シリンは反射的に怒鳴りつけた。

「な、何言ってんだい! このあたしがそんなわけないだろう!」

「で、でも…」

 八つ当たりなのは分かっていた。
 でも、いつもなら喰らい付いてくる筈のセフルが妙に歯切れが悪いのが同情されているようで、余計に腹立たしく彼女の気持ちをいらつかせる。

「うるさいね、あっちにお行きよ!」

「何だよ、何があったか知らないけど、僕に当たるなよ。
せっかく八葉を葬り去るいい手を思いついて良い気分だったのにさ。
――まあ、いいさ。八葉が一人でもいなくなればお館様は喜ばれるんだ。間も無くお褒めの言葉を頂くのはこの僕さ」

 無邪気な子供。バカが付くほど純粋な。あの場にいたくせに何も気付いちゃいない。
 この子は本当に子供なのだ。

 不意にシリンは泣きたいような、それでいて笑いたいような気分に襲われる

「――ねえ、セフル…」

 ブツブツと文句を呟きながら、足音も荒く行きかけるセフルを彼女は酷く優しい声音で呼び止めた。

「セフル、お前、もし……」

 モシ、オヤカタサマガ、ミコヲ……

――不意に気が変わった。

「――やっぱり、何でもないよ。とっととお行き!」

「何なんだよ、さっきから! 行けっていったり、止めたり…。
もう、お前に呼ばれたって返事なんかしてやらないからな!」

顔を真っ赤にして憤慨し、今度こそ走り去っていくセフルの後姿を苦笑しながら見送る。

 口内が酷く苦かった――






update : 01.10.17


LaLa 10月号に触発されて書いたジェラシーお館様(笑)
もー、イクティの回想シーンでのお館様のセリフ見た瞬間、顔が緩みましたよ〜(*^.^*)
「まことに…何故こうも胸が焦がされるのか……?」って、自覚なしなところが可愛いですvv
ジリジリと胸を焦がすは嫉妬の炎…ですわよ。フフフ。

また、「八葉が一人でもいなくなればお館様は喜ばれるんだ」って、セフルのセリフは、
イクティだけではなくあの場に彼もいて、アクラムの言葉を聞いてたんじゃないかな〜、と。
勿論嫉妬云々には気付いてなくて、ただ敬愛するお館様が八葉を排除したいと強く望んでると思ってて、それプラス傷を負わせた恨みで、先走った行動に出たのではと想像してこのお話を書いていたのですが…つまって暫く放っておいたら、何と来月号の予告で(多分)そのことで叱責されるセフルの話が載るそうで…。
今アップしとかないと、真実が分かってからだと、永遠にアップする機会なくなっちゃいそうなので、本誌発売前に慌てて最後まで書きあげたしだいです(笑)
…まるで違ってたりして…(笑)そしたらきっと早々とさげるでしょうけど。
01.10.17

八弦琴・後日譚読みました。…けど、あれだけかいっ!?
叱責されたセフルがその後イクティに八つ当たりするのはお約束ですね〜(笑)
結局琴を持ち出した経緯には触れてないので、このお話は、まあ、このまま載せておくってことで(笑)
ところで、お館様の怪我はどーなったのー!? 治ってるのか、あれ??
01.10.24
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