その日の執務を終え、伽羅御所に帰宅した泰衡は、自室で茶の入った椀を手に楽しげに談笑している妻としもべの姿に微かに眉を寄せた。
いつもならば泰衡が帰ると嬉しそうに顔を輝かせて、いそいそと近付いてくる望美が今日は銀とすっかり話し込んでいて彼に気づく様子さえない。
僅かな苛立ちを滲ませて、空き時間があれば目を通そうと持ち帰っていた書状の束を、ばさりとやや乱暴に彼は文机に放り投げた。と、その音に漸く望美が顔を上げた。
「あ、泰衡さん。お帰りなさい」
「泰衡様、お帰りなさいませ」
嬉しげに挨拶はするが、それでも立ち上がらぬどころか銀と顔を見合わせて、クスクス笑いを始めた妻に、着替え、とだけ不機嫌に言い捨てる。
「あ、はい」
慌てて椀を置き、立ち上がった望美は、唐櫃から取り出した一揃いの着物を手に泰衡の傍まで来ると、不思議そうに彼の顔を見上げた。
「いつもは私が手伝おうとしても、一人でさっさと着替えちゃうのに、今日は珍しいね…」
「そうか? 別にそんなこともなかろう」
そんなことあると思うけどなぁ、と不本意そうにブツブツ言っていた望美が突然、あ、そうそう、と呟くと小さな笑みを浮かべた。
「ねぇ、私と銀、何の話してたと思う?」
「さあ」
「聞きたい?」
「別に」
全く気にならないと言えば嘘になるやもしれぬが、さりとてここで聞きたいなどと言えるような性分でもない。
それに、どうせ何と返答しようとこの女は自分が喋りたい時は喋るのだ。
素っ気無い彼の返事に、もう、可愛くないなぁ、と望美は一瞬唇を尖らせたが、案の定黙ってはいられぬようで、すぐに気を取り直すと口を開く。
「まぁ、そう言わずに聞いてよ。あのねぇ…」
ふふっと悪戯っぽく微笑むと、彼の顔を覗き込む。
「色々な人の癖について話してたんだけど、今はね、泰衡さんの癖について話してたの」
思っても見なかった彼女の言葉に外套の紐を緩めていた泰衡の手がぴたりと止まる。
「そうしたら丁度本人が現れるんだもの。何かおかしくて…。ね、銀?」
神子様の仰せのとおりにございます、と応じた銀と望美はまた顔を見合わせてクスクスと笑いあう。
その睦まじげな二人の姿に再び募り始めた苛立ちを押し隠すと、泰衡は感情をこめぬよう平坦な声で切り捨てた。
「…くだらん。俺には特に癖などない」
「そう思うでしょ。でもねぇ、本人が気づいてないだけで、結構みんな持ってるものなんだよ、これが」
何故か得意気な望美を泰衡は眉根を寄せ、うろんなものを見るような眼差しで見つめた。
「たとえばその眉間の皺、とか」
「これは別に癖というわけではない」
「じゃあ…、鞭は?」
「鞭?」
眉を上げる泰衡に、うん、と望美は勢い込んで大きく頷く。
「馬に乗ってない時でも、何故か常備してて、泰衡さん、機嫌悪い時、いっつもその乗馬鞭手のひらにぶつけて、バシバシ鳴らしてるじゃない? ――ほら、今みたいに」
望美の言葉に、彼は自分の手元にゆっくりと視線を落とした。
いつの間にか無意識にしっかりと己が手の中に収まっていた鞭に瞠目する。
「……………これは……」
珍しく言葉に詰まった泰衡に、勝ち誇ったように望美がにやりと笑う。
「それを言うなら、あなただって」
「え、私…?」
「ああ。あなたは思案する時はいつも、拳を額に当てるし…、それに、深く微笑まれる時には必ず右に小首を傾げて、反対側の手を耳のところに当てなさるのがあなたの癖だろう」
望美の瞳が大きくなり、彼女は酷く驚いたように泰衡を凝っと見つめた。
「――どうした?」
訝しげに眉を寄せながら泰衡が訊くと、望美は頬を染め、嬉しい、とぽつりと呟いた。
そうして彼女はにっこりと何とも嬉しげな笑みを――そう、丁度、彼が今言ったように、可愛らしく小首を傾げながら、顔全体にのぼらせた。
その花が綻ぶような笑顔に、つられてつい綻びそうになる口許を引き締めると、淡々と彼は問うた。
「嬉しい?」
「うん…、泰衡さん、意外と私のことちゃんと見ててくれてたんだなぁと思って…」
頬を薔薇色に上気させた少女に瞳を潤ませてうっとりと見上げながら、そう言われ、泰衡はふいと彼女から目を逸らした。
「……フン、年中阿呆面下げて横でへらへら笑われていれば嫌でも目につ……おい、そこで何故抱きつく?!」
力いっぱい飛びつかれて面食らう泰衡に、望美は喜色満面で微笑みかける。
「だって嬉しいんだもの」
「だから、それはお前の阿呆面が」
「これからも、私、あなたのためだけに微笑み続けるからね」
「頼んでな」
「泰衡さん、だーいすき!」
駄目だ、聞いちゃいない。泰衡は眉間を押さえると大きく息を吐き出した。
彼の首に腕をぎゅっと回し、全力でかじりつく神子を引き剥がそうと苦戦している主を銀は柔らかな微笑をたたえて見守っていた。
時折泰衡の口から『何でもいいから取り敢えず離れろ』だの『この馬鹿力』だの『鬱陶しい』だの憎まれ口が飛び出すが、結婚当初は一々真面目に受け取って傷ついていた神子も、今ではすっかり慣れたもので、照れなくてもいいですってば〜、と軽く流している。
それでも、やはり腹が立つ時は立つようで、たまに大喧嘩に発展していたりすることもあるが、今日はどうやら彼女の中では怒りよりも嬉しさの方がまさったようである。
(まったく、泰衡様もあんなことおっしゃったら、神子様がお喜びになるに決まっておりますのに…)
あれで無自覚なのだから、始末が悪いというか、たいしたものであるというか…。
取り敢えず自業自得であることだけは間違いない。
小さく苦笑する銀とうんざり顔の泰衡の目が合う。
疲れきった様子で目顔と身振りで神子の肩越しに加勢しろと訴える主に、銀は再び穏やかな微笑を浮かべると深々と一礼し、そのまますす、と退出した。
瞬間泰衡が信じられぬというように目を剥き、すぐに怒気を含んだ眼差しで彼をねめつけた。
その唇が明らかに『駄犬め』と形作っているのを視界の端に捉えたが、今は主の怒りよりも――
「馬に蹴られることの方が恐ろしゅうございます」
小声で独りごちると彼はにっこりと笑った。
母屋と庇の境にしつらえられた襖障子を銀がすっと閉めたその時。
室内からどさりと柔らかな何かが――或いは誰かが、倒されたような音と次いで微かなくぐもった甘やかな声が聞こえ、銀はその笑みを一層深いものとした。
それが神子の猛攻によるものか、はたまた反撃に転じた泰衡によるものなのか、真相は神のみぞ知ることである。
望美ちゃんの笑顔の表情グラフィックは2種類ありますが、満面の笑みの方が私は好きかもv
今で言う「襖」は平安には「障子」または「襖障子」、現在「障子」と呼ばれている白くて薄い紙を貼った物は「明かり障子」と言う名で区別されていたそうです。
なので、この話の中で銀が閉めた物は現在で言う襖を思い浮かべてくださいませ。