そこは静謐な空気に満ちていた。
ふと気づけば見知らぬ場所にたった一人。
目を開けば、ゆらゆらと深い水底にたゆたうような青い――どこまでも蒼い世界に不思議と恐怖は感じなかったが、それでも戸惑いを隠せない。
「ここは…?」
小さく呟くとあかねはぼんやりと周囲に目を向ける。
緋色の袖が、仮面を留める為の朱房の紐が、水流になぶられる藻のように、ゆうらりと揺れている。
いつの間に現れたのかそこに1人の男の後ろ姿を認め、あかねは驚きに息を呑んだ。
「アクラム…!?」
彼女の声に男が肩越しにゆっくりと振り返る。
振り返ったその面(おもて)には常の如く恐ろしげな仮面が装着されていたが、その下に隠された秀麗で寂しげな素顔を見知るあかねは思わず頬が熱くなるのをとどめることは出来なかった。
(どうして此処にアクラムが…?)
混乱する頭で何とか記憶を引き寄せる。
確か自分は友雅、頼久と共に東寺に赴いていた筈だ。
問題の琴を見る前に友雅に、市を見ておいで、と言われ…。
そこまで思い出したところであかねはハッとする。
問題の琴……八弦琴…!ゆがんだ不快な音色。次第に重くなる身体と抗い難い強烈な眠気…。
意識を手放す瞬間に響いた鈴の音と「神子…」と低く、甘く囁かれる彼の人の声。
ならばこれも私を――龍神の神子を手に入れんが為の彼の人のたくらみなのだろうか?
「…アクラム、これも、あなたの仕業なの?」
だが、男はあっさりと否定する。
「―――違う。ここに来たのはお前自身の意思だ」
ゆったりとこちらに歩を進めながら返された思ってもみなかった答えに瞠目する。
「そんな…私…」
(そんな…そんなわけない…)
振り切ったはずの胸の奥底に眠る想いを突きつけられ、あかねは喘ぐように呟いた。
動揺したあかねが目の前に立つアクラムを見上げた瞬間、緋色の袖に包まれる。
衣に焚き染められた豪奢な香の薫りがふわりとあかねの鼻腔を満たす。
「神子…」
耳元で艶やかに、甘く囁かれる蠱惑に満ちた声に胸が震える。
(…違う…私、もうあなたのことなんて…)
優しく抱きしめられて、気が遠くなりそうになる。
抗わなくてはいけない、とそう思っても、心地良いこの胸から逃れることが出来ない。
(―――捕らわれてはいけないのに…)
あかねの瞳から、一筋の涙が零れた。
きつく目を閉じたあかねの瞼にそっとアクラムの唇が触れ、その涙を拭っていく。
思わず、喘ぐような溜め息を洩らしたあかねの唇をそっと男の冷たい唇が塞いだ。
恋をした2人のためのお題「blanc1-7 胸の奥に隠した真実」(dix)