ふわりと、漆黒の外套に包まれ、望美はうっとりと目を細めた。
包まれると同時に、鼻腔は望美の大好きな彼の薫りに満たされる。
桜舞う季節にすったもんだの末に、漸くこの平泉の総領と想いを通じ合わせた望美は、彼の仕事が一段落するこの紅葉舞う季節に目出度く祝言を挙げる運びとなっていた。
「んー、良い匂い…。前から訊こうと思ってたんですけど、泰衡さんって何のお香使ってるんですか?」
「…銀の奴でもあるまいし、俺がいちいち衣に香なぞ焚き染めるような人間に見えるか」
フンと鼻を鳴らす泰衡に、望美は首を傾げた。
「見えない…ですけど、でも、これってお香の薫り、ですよね?」
「――この薫りに覚えはないか…?」
逆にそう問われ、望美は眉を寄せ、記憶を辿った。
そう言われてみれば、この気品があり、微かな苦味がありながら、どこか優しい――それを纏う男と似た印象を与えるこの薫りはどこかで嗅いだ覚えがあるような無いような…。
「神子殿は何度もいらしたことがあると記憶しているが」
話が見えず更に首を傾げる望美に、泰衡はフッと笑った。
「あそこが何故『伽羅御所』と呼ばれるようになったと思っている?」
言われ、望美はあっと口を開けた。確かにかの御所でそこはかとなく漂っていた薫りと彼の薫りは酷似している。
ただ、今鼻腔を満たしている薫りの方がより深みがあり、好ましく感じるのは多分彼自身の匂いと混じりあっているから。
「…いつも、伽羅を焚いているから?」
豪勢な話だなあと思いながら、言葉を紡ぐ望美に、しかし男は緩く束ねた黒髪を揺らして、首を振る。
「近いが、正しくはないな。――あそこが伽羅御所と呼ばれているのは、伽羅を使って建てられているから、だ。
無論柱など強度が必要な部分はその限りではないが…」
「はいぃ!?」
至近距離で素っ頓狂な声を上げる望美に、泰衡が眉を顰める。
だから、加熱した時ほど薫りは立たぬとはいえ、自然、衣にも館の香が移ってしまうだけのこと、と泰衡が言っていたような気がしたが、望美は聞いちゃいなかった。
沈や伽羅などの舶来品である香木がとても高価なことぐらい望美だって知っている。
とゆーか沈香の中でも最上品のみが伽羅と称されると銀から聞いたことがあるような…。
沈で作られた箱や折敷や机ですら都でも高級品だと言うのに、なのにそれよりもレベルが上の伽羅で家建てちゃいますか!?
いや、泰衡さんが建てたわけじゃないんだろうけど…。
伽羅製の館って現代で言うなら、総大理石のお城と言ったところだろうか?
いや、希少性で言ったら、香木の方が遥かに上なのだから、きっとそれ以上だろう。
まったく一体どれだけ財力あるのよ、奥州藤原氏っ!?
まいった。いくらよく見ると上質な物とはいえ、日頃は黒ずくめの着たきり雀のこの人と一緒にいるせいですっかり忘れていた。
いや、黒ずくめだから、雀と言うよりはカラス…? まぁ、それはともかくとして。
だが、そういえばあの贅を凝らした金色堂を作った一族であると思えばさもありなん。
望美は、はぁぁ、と深い溜め息をついた。
生粋の庶民の自分がこんなところにお嫁に行って、果たして上手くやっていくことが出来るんだろうか…?
何だかそんな不安まで湧いてくる。
「そんなに驚くようなことでもないだろう」
そんな望美の心中も知らず。
驚き顔で一人ブツブツ言う彼女を面白そうに見やりながら、事も無げにのたまう奥州の王子様に目眩がする。
「いや、普通驚きますってば!」
ムキになって返す彼女に、そうか、と軽く流すと、男は望美の長い髪を一房掬い取り、口許に運ぶ。
「何の香も焚き染めぬのに、常にかぐわしき香りを漂わせるあなたの髪の方が俺にはよほど驚きの対象なのだがな」
「っ!……」
満更冗談でもなさそうにそんなことを告げられ、頬を染めて立ち尽くすしかない望美の耳に、低く喉で笑う男の声が聞こえた。
抱きしめられたら、泰衡さんって良い匂いがしそうだなーというお話。
伽羅御所の名の由来は「伽羅で作られた御所だから」と言うのと「唐風の造りの建物だったので、最初、唐御所(からのごしょ)と呼ばれていて、後にそれが転じて伽羅御所(きゃらのごしょ)になった」と2説あるのですが、ここでは前者を採用。