お館様がお風邪を召された。
大事無い、とは仰っているけれど、熱があるそうなので、僕は心配でしょうがない。
このところあまりお食事も召し上がってらっしゃらないし、僕らに指示を与えながら、時折酷く苦しそうに咳き込まれる。
ここ数日そんな状態で頑張っておられたお館様だが、とうとう昨夜から床に臥せってしまわれた。
あぁ、おいたわしい!
こんな時こそ、この僕がいつも以上にお仕えしなければ!!
張り切って、お館様の部屋へと向かった僕は、お部屋の前で、丁度反対側からやってきたシリンとバッタリ会ってしまった。
「ちょっと、あんた、どこに行くつもりだい?
まさかあんたみたいなガキがお館様の看病しようってんじゃないだろうね」
両手を腰に当てたシリンが細い眉を逆立てて、僕を睨みつける。
年増なんかに負けるもんか!
「そっちこそ!お前なんかが行ったら、お前の毒気にあてられて、余計にお館様の具合が悪くなるだろ!」
「なんだってェ!」
「なんだよ!」
絡み合った視線はバチバチと今にも火花を散らしそうで、どちらも一歩も引く気配はない、正に一緒即発の状態。
だが、やりあった場所が悪かった。
しっかりとお館様のお耳に届いていたようで、間一髪の所で止めに入ったイクティダールに、お館様が大層ご立腹なことを伝えられ、二人共お部屋には出入り禁止をくらってしまった。
それもこれも、みんなシリンが悪いんだ、ブツブツと呟きながら、乱暴に目の前の草を引き抜くと、手元の籠に放り込む。
籠の中には、ここ深泥ヶ池に生息する薬草が半分程入っていた。
看病出来ないならば、せめて薬でもお届けしようと思ったのだ。
考え事をしながら、しゃがんでせっせっと薬草を摘んでいた僕はそのせいで背後からの気配に気付くのが一瞬遅れた。
「あっれー、セフルじゃない。こんなところで何してるの?」
突然、すぐ後ろで能天気なばかでかい声が響いて、僕は飛び上がった。
慌てて立ち上がって振り返ると、桃色の髪の少女がニコニコしながら、僕を見つめている。
「りゅ、龍神の神子!? お前こそ何でこんなとこにいるんだよ!?」
思いっ切り慌てたところを見られ、恥ずかしさ半分、腹立ち半分で、僕は不機嫌に言い捨てた。
しかし、神子は全然気にする風もなく、んー、私だって、1人になりたい気分の時もあるのよねぇ、と言って、フフ、と笑いながら、何気なく僕の手元を覗き込んだ。
と、その笑顔が不意に翳る。
「ねえ、セフル、これって薬草だよね…? ――誰か病気なの?」
「お前には関係ないだろ!」
勿論、一族の内部事情を敵である神子に話す気など、毛頭ない。
だが、龍神の神子は天然な癖に妙なところで鋭かった。
「わかった。アクラムでしょ!」
指をビシッと突きつけて、断言する。
「な、なんで…」
「だって、セフルがイクティダールさんやシリンの為に、こんなことする訳無いもの!」
キッパリハッキリ言い切ると、セフルがこんなに一生懸命になるのは、やっぱりアクラムの為だけよね〜、と言いながら、一人でうんうんと頷いている。
ふふん。なんだ、よくわかってるじゃないか、神子の奴。
「あったりまえじゃないか。お館様の為じゃなきゃ誰がこんな足場の悪い所で泥にまみれながら、草取りなんかするもんか。
それもこれも、早く良くなって頂きたいと思う僕のこの……」
ちょっと自分の世界に入ってペラペラと話していた僕は、神子にガバッと両肩を掴まれて我に返った。
慌てて口を押さえてみても、もう遅い。
「…やっぱり。で、アクラムの具合はどうなの?」
そう尋ねてくる神子の瞳は何故か酷く真剣で、何だか面白くないけど、無視も出来ない感じで……。
それにここまで喋ってしまったのだから、今更隠してみてもしょうがない。
「ふん。敵の心配とは相変わらずお優しいことだな。
そんなに気になるなら、少しくらいなら教えてやるよ。
……熱はそれ程でもないみたいだけど、頭痛と咳、それに喉の痛みが酷いみたいだ。
多分、お風邪を召されたんだはと思うけど…。いや…」
チラリと神子を見て、薄く嗤う。
「お前らの仲間の陰陽師が呪詛でもかけたのかもしれないな」
「ひどい! 泰明さんはそんなことしないよ!!」
「どうだかな。そういう訳で僕は忙しいんだ。いつまでもお前の相手はしてられない」
真っ赤な顔をして怒鳴る神子を冷たくあしらうと傍らの籠を取り上げて、転移の為、気を集め始める。
だが、神子は思ってもみなかったことを言い出した。
「待って。私も行くわ。一緒に連れてって!」
「……はぁ?」
何を言ってるんだ、こいつは…?
元々、僕は龍神の神子を連れてくることには反対だった。
以前、お館様に「神子を奪え」とご命令を受けた時も、思わず「あのような小娘は必要ありません」と言ってしまい、「主はどちらだ?」とお叱りを受けたくらいだ。
「あのね、さっき、アクラム、喉が痛いみたいって言ってたでしょ。
私、いいもの持ってるの…。だから…」
戸惑いの表情を隠し切れない僕に尚も神子は言い募る。
「お断りだね。別に、現在はお前を奪ってこいという命令は僕は受けちゃいない」
冷たく言い捨てて空間に身を躍らせようとしたその時、龍神の神子はとんでもない行動に出て僕を驚愕させた。
「な、何考えてるんだよ、お前!危ないじゃないかっ!」
派手な音と共に落下するように無様に帰還を果たした僕は、痛む腰を擦りながら目の前の神子を睨みつけた。
軽い打ち身と擦り傷くらいでたいした怪我じゃないが、その原因である神子の方が僕の上に着地したおかげでピンピンしてるのが納得がいかない。
「だって、セフルが行っちゃおうとするから…」
「だからって、跳ぶ瞬間にいきなり跳び付いてしがみつく奴がいるか!
おかげで体勢を崩して、危うく二人共、時空の狭間に落っこちるところだったんだぞ!!」
「ご、ごめんなさい…」
キツイ口調で怒鳴ると神子はしゅんとして、項垂れた。
更にもう一言くらい言ってやろうと、大きく息を吸い込んだその時――
「――何事だ? 騒々しい!」
低く深みのある良く通る美声が苛立ちを含んで投げかけられた。
「お館様!」
「アクラム!」
壁に持たれかかるようにして、こちらを見据えてらっしゃるお館様は、熱の為にやや潤んだ瞳で…。
きっとお寝みになっていたのだろう白い小袖姿に豊かな金の髪は、今日は後ろで緩く纏められただけで…。
その髪が病やつれで、すこしそげた白い頬や額に乱れかかるさまは、男である僕が言うのも変だが、ハッキリ言ってそこらの女なんて目じゃない程艶めいておられた。
ほうっと微かな溜め息に横を見ると、頬を染めた神子が熱もないくせに目を潤ませて、お館様に見入っている。
ムッ!
「お館様、お起きになって大丈夫なのですか?
まだ、休まれていた方が…」
急いで神子とお館様の間に割って入ると、声を張り上げた。
だが、その視線は僕を通り越して、ジッと神子に注がれている。
僅かに見開かれていた碧眼が数度瞬き、低い呟きが洩れる。
「――龍神の神子、何故そなたがここに…?」
こいつが勝手にくっついて来たんです〜。
「――そうか。遂に我が一族の元へ来る気になったのだな。クックック…」
僕が説明する前に一人で納得されてしまわれたお館様は、機嫌良さげに、いつものように含み笑いを始めた。
しかし、今日はそれも長くは続かず、すぐにゴホゴホと咳き込んでしまわれた。
その途端、ハッと我に返った神子が、素早くお館様の側に駆け寄って背中を擦る。
「あー、もう、アクラムったら具合悪い時までそんな手順踏まないでいいの! それよりも、熱はどうなの?」
言いながら、額に手を当てる。
「う、ん、熱は下がったみたいね。喉は? まだ痛いの?」
手順…? と呆然としたように呟いていたお館様は、まるで薬師のようにてきぱきと病状を確認する神子の迫力に慌てて頷いた。
「あ、じゃあ、これあげるね。制服のポケットに入ってたんだ」
ニッコリ笑って神子が服から取り出したのは、見たことも無いツルツルした小さな包みだった。
「ちょっと待て、神子! 何だそれは!?」
思わず叫んだ僕を神子は怪訝そうに振り返る。
「何って、ただの喉飴だよ。ここの美味しいし、結構効くんだ」
「それが飴ぇ? そんな紙でも布でもない変な包み初めて見たぞ。まさか毒でも入ってるんじゃないだろうな?」
「失礼ね! 毒なんか入ってるわけないでしょ!」
ムッとしている神子に僕もムッとして言い返す。
「愚かな人間どもの味方をしているお前の言う事なんて信用出来るもんか!」
「もう、セフルってば本当に疑り深いんだから…」
大きな溜め息を吐くと、神子は掌にあった包みの端を指で引き裂いた。
中から出てきたのは、宝珠と同じくらいの大きさの琥珀色の珠。
それを指で摘んでぽいと自分の口に入れると、どう、これで納得した? と僕を見る。
渋々頷くと、満足そうに微笑んだ神子は、お館様の方にもう一歩近付いた。
そして、爪先立ちになってお館様の肩に手をかけると、顔を寄せそっと唇を重ねた。
「なっ!」
な、何をやってるんだ、神子のやつっっ!?
ガーン!という音が頭の中で鳴り響き、耳の奥で何度も木霊する。
身体がワナワナと震え、衝撃でロクロク言葉も出てこない僕を尻目に、ゆっくりと身体を離すと神子は、今のが最後の一個だったの。だから…ね…、と言って、少し頬を赤らめて、はにかんだように笑った。
「美味しい?」
「…うむ」
袖で口元を押さえて頷くお館様に、良かった、と優しく微笑む神子。
「うわーん!!」
気付くと僕はまるで小さい童のように大声で泣きながら、その場を駆け出していた。
「あらら、セフルってば以外と純情…。アクラム、後、フォローよろしくね」
後ろで、そんな神子の言葉が聞こえたような気がしたが、知るもんか。
大人なんて…
大人なんて嫌いだぁっっ!!!
こんなのあかねちゃんじゃないやい! というそこのあなた。
はい、あなたは正しい! その通りでございます〜。…ごめんなさい。
あ、鬼の一族秘伝の薬は、(持ち出し禁止なくらいだから)もっと重病用とゆーことで…。
風邪くらいでは使われないのです。(きっぱり!)
※この時代にも飴ってあったのですが、ホントは当時の飴は大麦の芽(バクガ)と糯米で作った甘味付けの為の調味料だったそうです…。