忘れ貝
わかの浦に袖さえ濡れて忘れ貝 拾へど妹は忘らえなくに


 吹きつける風が色素の薄い髪を散らす。
 無意識に何度もそれを掻き上げながら、寄せては返す波をシリンは凝っと見つめていた。
 潮騒の音が鼓膜をくすぐり、暖かな春の日差しが穏やかに彼女に降り注ぐ。
 初春の難波の海辺。
 波頭に煌々と黄金色の光がさんざめくのに、眩しげに切れの長い目を細めて。
 思いの外、冷たい海風にぶるりと身を震わせると、抱えていた膝を一層強く胸に引き寄せた。

「フン。海なんざ嫌いだよ」

 小さく吐き捨てると、煩わしげに又、苛々と髪を掻き上げる。
 降り注ぐ黄金の光はあの御方の髪の色。
 深く澄んだ波の色はあの方の蒼い蒼い瞳を嫌でも思い出してしまうから。
 なのにどうして自分はこうして来る日も海を眺めているのだろうか?
 何気なく目を落とした浜辺の白砂を掌にすくい上げると、それは矛盾したシリンの気持ちを嘲笑うように指の隙間から、さらさらと零れ落ちていく。
 幾度か柄にもなく気休めめいたことを試した事はあったものの自分のすべてとまで、思い定めた男をそう簡単に忘れられる筈もなく。
 埋めようの無い喪失感は未だ健在だった。

「――無理に忘れることはないって、お嬢ちゃんも言ってたけどねぇ。
……それにしても橋姫も存外役に立たないね」

 鮮やかに塗られた唇から深い溜め息が零れた。





「――橋姫がどうかしたのかい?」

 不意に背後から、声がかけられた。

「別に。あんたにゃ関係ないだろう。それより、もう出航かい?」

 振り返らなくても、誰かはすぐに分かった。
 最もこの声を一度でも聞いたことがあれば、大抵の女なら違(たが)えることはないだろう。
 こんな囁かれただけでゾクゾクくるような声が出せるのは、あの御方とこの男の二人くらいしか彼女は知らない。

 出来れば、まだ一人でいたかったのに。

 そんな気持ちから、海の方を向いたまま、素っ気無くシリンは応えた。
 だが、蕩けるような甘い美声はシリンの愛想の無さを気にする風も無く軽やかに近付いてくる。

「つれないねぇ。いや、出航までは後、半刻ほどかかるかな。まだ、荷の積み込みが終わってないようだったからね。
――又、海を見ていたのかい? 船の上で毎日見ているっていうのに、陸に上がってまで浜辺に来るとはよっぽど、君もこの広い海が気に入ったんだねぇ」

 背の半ばまで覆う真っ直ぐな髪を靡かせて男がシリンの横に立つと長い影が出来る。

「別にそんなんじゃないさ。
呼びに来たんじゃないなら、何のようだい、翡翠?」

 言いながら、ぐいっと声の方を振り仰ぐと、翡翠は微笑を浮かべて彼女を見下ろしていた。

「いや、先程面白い物を拾ったのでね、君にあげようと思ったのだよ」

「面白い物だってェ?」

 胡散臭そうだと思っている表情を隠そうともせず、シリンが柳眉を上げる。

 今更何であたしにかまうんだか、まったくおかしな男だよ。

 そうひとりごちると苦笑する。
 この元八葉にして海賊の頭領というふざけた男は、相変わらず飄々としていて何を考えているのか分からない。
 以前――まだ彼とシリンが八葉と鬼の一族として敵対していた頃、面白半分に誘惑してやろうとした時は、日頃の色男然とした態度からは想像も出来ない辛辣さでもってこのシリンを拒絶してくれたくせに。
 全てが終った後も、行き先を決めかねて流離っていた京の町で、ひょんなことから検非違使に追われる彼女を救う成り行きになったこの男は丁度いいとばかりに、伊予に帰還する船に彼女を誘った。
 誘いに乗ったのに他意はない。
 どうせ行く当てが無いのだから、ならばどこへ行っても同じ事。
 そう思っただけだ。いや、この男の言う『広い世界』とやらがどの程度な物なのか確かめてやりたいという気持ちも少しはあったのかもしれない。
 伊予に行って、もし、そこが気に入らなければ、又、どこへなりとも行けばよい。それだけのことだ。

「そんなに考え込んでしまうほど、警戒するような物でもないのだけどね」

 苦笑しながらかけられた声にハッと我に返る。

「物思いに耽る美女というのも悪くない眺めだが、どうか気軽に手をだしてくれまいか」

「あ、ああ。ぼーっとしていて悪かったね」

 そう言って広げたシリンの掌に翡翠が乗せたのは、小さな一枚貝だった。

「これがどうかしたのかい…?」

「『わかの浦に袖さえ濡れて忘れ貝 拾へど妹は忘らえなくに』ってね、この貝は恋忘れ貝といって、持っていると苦しい恋を忘れさせてくれるそうだよ」

 鋭く息を吸い込んで、シリンの表情が強張った。
 そんな彼女に、どうやら、宇治橋も効果がなかったようだからね、と付け足すと翡翠は柔らかに微笑んだ。

「……神子が・・・喋ったんだね」

 それは確認ではなかった。
 苦々しげに言葉を押し出したシリンの横に膝を付くと、折角の美人がそんな険しい顔をするものではないよ、と翡翠は宥めるように軽くポンポンと肩を叩く。

「神子殿は、大層君のことを心配しておいでだったのだから」

「フン。それもお優しい龍神の神子様の慈悲ってやつかい!?」

 一瞬、昔の憎悪が甦ったかのように荒々しく吐き捨てたシリンに、苦笑すると、そうではなくてね、と穏やかに翡翠は語り始めた。






「何だってェ!? じゃ、あの時には、もう…」

「ああ。怨霊化していた橋姫の神は、とうに神子殿に封印されていた。
宇治橋の三ノ間に祀られていた御神体が既にあらせられないのであれば、霊験などあろう筈もない。
神子殿は自分が封印したせいで、君の縁切りの邪魔をしてしまったのではないかと酷く気にしていてね…」

「だったら…」

 朱唇が震えた。

「だったら、何もあの場でそう言えばいいじゃないか!」

 すべて承知の上で、あんなことを言っていたのなら、まったく偽善者もいいとこだ。
 だが。

「そう信じることで、君の気持ちが少しでも軽くなるなら、と思ったそうだ」

 それを聞いてほんの少しだけシリンの目元が和んだ。

「フッ。いかにもあのお嬢ちゃんが言いそうなことだねぇ。
じゃ、あんたがこんな物(恋忘れ貝)を持って現れたのも、神子の意を 受けてってことだね」

「まさか。それは偶々拾ったのだよ。
私の八葉としての役目はあの神泉苑で終わったのだからね。
そこまで私が神子殿に義理立てする筋はないさ」

 いささか素っ気無いその物言いに意外さを感じ、シリンは碧眼を瞬かせる。

「ま、まあ、どっちでもいいさ。元よりあそこには気休めで行っただけさ。
だから、もう気にしないどくれと、京に上った時にでもあのお嬢ちゃんに伝えておくれ。
神子と八葉の関係で無くなっても、京に行った時には顔ぐらいは見せにいくんだろう?」

「まあね」

 頷く翡翠を見ながら、ふっとシリンの顔が翳った。

「――そう、全てはただの気休めさ。宇治橋もこの貝も全て…」

 力無く微笑んで、貝殻ごとギュッと掌を握り締める。

「では…」

 囁くように声が近付き、シリンの俯けた顔に影が落ちる。

「――新しい恋で忘れる、というのはどうだい?」


 まったくお約束を外さない男だよ。
 思わず笑ってしまう。

 ――何てありきたりの台詞。

 そう言って、せせら笑ってやろうとして顔を上げたのに。
 近付いてくる男のその名と同じ色の瞳には、今にも泣き出しそうな自分の顔が映っていて、言葉を失う。
 唇が重ねられた時もシリンは、ぼんやりと目を開けたままだった。




 ――男のくせに随分と長い睫毛だね。




 そんなことを冷静に思っている自分に苦笑する。
 遊女として生きてきたシリンに口付けに対する特別な感慨など何も無い。
 必要とあれば、誘惑し、肌を重ねることにも躊躇いなどなかった。
 寧ろ、馬鹿な男どもが、自分に溺れ、操られ、ボロボロになっていくさまを見るのは楽しかった。
 男なんて、唯一人を除いて、皆同じだった。




 ……ふうん。流石に色男ぶるだけのことはあるかもしれないね。




 男の舌が優しく愛撫するようにゆるやかに口内をなぞっていく。
 ありったけの技巧でも使ってこようものなら、噛み付いてやろうと思っていたのに、柔らかく舌を絡ませるだけのせわしなさのない口付けは、酷く穏やかで今のシリンには心地良かった。







「……悪くないね」

 一言、言って髪を掻き上げて微笑むと、それはどうも、と、男も艶やかな笑みを浮かべる。

「で、どちらが?」

 笑い含みの声で聞いてくる。
 どちらとは無論『新しい恋』か『口付け』かという意味だろう。

「そんなの…」

 意地悪げに、にやりと笑うとシリンは言い捨てる。

「勿論、接吻の方に決まってるだろ。
別に伊予に行くからといって、あんたの女になる気なんて、さらさらないさ。
あんた、このあたしに海賊になれって言うのかい?」

「君みたいな血の気の多い女にはぴったりだろう」

「誰が血の気が多いってェ!?」

 艶やかな髪を一房弄びながら、さらりと返す男をきつい目で睨んで。

「大体、あんたみたいな男、伊予にだって、きっと何人も女がいるに違いないよ!」

 人差し指を大きく開けた男の胸元に突きつけて断言すると、翡翠は愉快そうに笑いながら、肩を竦めてみせた。

「おやおや、お見通しとはかなわないな。
では旗色が悪くなったところで、私は一足先に退散するとしようか」

 立ち上がって軽く着物についた砂を払う。

「ではね、シリン。間も無く出航だから、君ももう少ししたら戻りなさい」

 一瞬だけ真面目な顔でそう告げると、再び笑顔に戻り、肩越しにひらひらと手を振りながら翡翠は元来た方へと戻っていく。

「なあにが新しい恋だい。相変わらずふざけた男だよ」

 その背中に向かって毒づきながら、久しぶりに声を立てて笑っている自分に気付き、飄然とする。
 こんな風に笑ったのは、幾日ぶりだろうか?
 そう、“あの日”以来心から笑える時なんてなかった。
 呆けたように力の抜けたシリンの手から何かがポロリと落ちた。
 見下ろすと、それはあの“恋忘れの貝”だった。
 自らも術の使い手であったシリンは、物や言の葉にも確かに呪力が宿ることを知っている。

「だけど、これはねぇ…」

 クスリと笑うと拾い上げる。
 掌の上に乗せて、もう片方の手をかざし、気を探るが、感じる波動は微弱な物。
 所詮、民間伝承の程度だろう。
 彼の口説きを真に受ける気はなかったが、これなら翡翠の方が余程効果がありそうだ。
 女扱いに慣れた男といると確かに気は紛れるし、理屈じゃない心地良さを感じるのもまた事実。
 気晴らしの自分とおそらくは興味本位だろう翡翠。
 はてさて、酷いのはどっちだか。

「…とはいえ、撥ねつけちまったばっかりか」

 先程の遣り取りを気にするような男とも思えないが、かといって一度撥ねつけた以上、こちらから擦り寄っていくのも癪にさわる。
 思案顔で、何気なくぽーんと貝を上空に放り投げたシリンは、パシッと空中で受け止めた瞬間にやりと笑う。

「これの効果が無かったから、責任取れってのはお約束過ぎて、あいつには調度いいかもしれないねぇ」

 そうだ、そうしよう、と、独り頷くと、悪戯を思いついた子供のような気分でクスクス笑いながら、立ち上がる。
 太陽の位置が変わった。そろそろ出航時間も近い。
 シリンは船に向かって歩き出した。
 しっかりと貝殻をその紅の袂に仕舞い込んで。




update : 02.4.16


元ネタは『今昔物語集』から〜。『今昔〜』結構楽しいです♪ ネタの宝庫?(笑)

ところで、私、海路ってイマイチ分かってないのですが、伊予に行く時、難波って通るのですか?
もしかして私、翡翠の船、回り道させちゃった…???





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