到来

 


















 未明の月は、暗天の微かな裂け目から姿を覗かせた光のように、細く。








 あかねはため息をついた。
 ほんの少しの呼気の流れさえも、この凍てついた大気の中では存在を隠せない。
 小さなため息が白い霞となって大きく広がり消えてゆくのを、苦笑を浮かべながら見つめた。

 昨日降った雪は庭を美しく覆い、家人の配慮からか、あかねの部屋から見渡せる景色の中に雪を踏んだ無粋な痕跡は無い。
 常ならば真冬の早朝などまだ夜にも等しい闇の中。けれどこの日、敷き詰められた雪の絨毯は天から注ぐ僅かな光を糧にして、朧ながらに庭の趣きを照らし出している。


――寒いけど、こんなに綺麗な雪の庭が見られたから、いっか。


 外が暗がりのうちに寝床から廂に出てきた自分の気持ちを、あかねはそう結論付けた。


 この京の冬の凍るような寒さにも、ずいぶん慣れてきたものだと思う。
 「龍神の神子」としての戦いを終え、こちらの世界に残ってから三年半、四度目の冬だ。
 周囲の勧めに従い、龍神を祀る目的で急遽建造された社に移り住み、鬼を倒した後も求められるまま神子としての勤めを果たしてきた。
 共にこの世界にやってきた仲間達は自らの在るべき場所へと帰り、今はもういない。
 彼らからは考え直した方が良いと何度も言われたが、結局あかねは京に残るという意志を曲げなかった。

 何故、と訊かれて答えられたのは、これで終わりにできないから、という言葉だけ。
 何を、と問い返す者は無かった。
 彼らは知っていたから。


――それから三年半、四度目の冬。
 重い装束にも慣れた。筆で和紙に文を書くのも慣れた。淡白な味の食事にも慣れた。遅くて揺れる牛車にも慣れた。
 「龍神の神子」らしく厳粛に振舞うことも、神の奇跡を求めてやって来る者たちを落胆させない程度に相手するのも、方々から届く贈り物を適当に捌くのも、貴族の催事に引っ張り出されてはお飾りにされた挙句に自分の領地が富むように祈れだの帝に是非とも自分の事をひとつ宜しくだの好き勝手言われるのも何もかも――慣れてしまった。

 元の世界に帰った仲間達が今の自分を見たら、馬鹿やってないで早く帰ってこい、とでも言っただろうか。
 この間藤姫と頼久に会ったときは、神子様お痩せになられてしまいましたわ、お顔色も優れぬご様子、とずいぶん心配された。
 宴などに出ると、同席していたらしい友雅や鷹通から、あまり無理をしないように、といった手紙が届く。
 帝に謁見すれば、彼経由で永泉からの、あなたのお幸せをただ御仏に祈念する日々です、という言葉が伝えられる。
 体調を崩しかけると、突然泰明がやってきては気を整えてくれて、このままでは何も変わらぬ、と諌めて帰ってゆく。

 心配かけてごめんね。大丈夫だよ。ありがとう。でもこれでいいの。

 あかねの答えはいつも決まっていた。








 …静かだ。
 こんな時間は、誰も自分の心を脅かさない。
 だから独り、物思いに沈むことができる。
 以前の自分なら暗がりを恐れこそすれ、安寧を感じたりはしなかっただろうけれど。

 あかねは重ねた衣の袷を引き寄せ、その場に佇みただ庭を見つめる。
 何も汚れてない白が、仄かに照るだけの雪明りが、眩しかった。
 その白に、飲み込まれそうだった。

 引き寄せられるように歩み出し、雪に降りる。

 さく、という微かな音と、一瞬の抵抗の後に沈む足元の感覚に、子供の頃のように新鮮な感動を覚えた。
 あかねはそっと、ひとつ、そしてまたひとつと、小さな足跡を刻んでゆく。
 庭の半ばまで来ると空が開ける。そこに立っていると、廂から見下ろしていた時よりも一層雪を明るく感じた。


 思い出す。
 この雪明りに似た、月を受けて滲むように輝く光を、かつて見た。
 その色は白銀ではなく、金、であったけれども。



 それはこの雪よりも冷たく、美しかったもの。



 …胸が痛むのは、冷えきった空気を吸い込んだからなのだろうか。
 それとも熱い何かが胸の中に込み上げて来たからなのだろうか。

 しかし頬を伝ったその熱さえも、落ちて雪に穴を穿つころには冷たい雫と成り果てる。
 あかねは雪の中を立ちすくんだまま、いつしか声もなく泣いていた。


――ごめんなさい
 それは今日この時まで、解放を許されなかった思い。
――ダメだった。
 ダメだったんだよ。
 私は何も変えられなかった。
 せめてそれだけが、私にできる償いだと思っていたのに――




 三年半前。
 六月十日。
 戦いがあった。
 勝利した者と敗れた者があった。
 敗れた者は姿を消した。
 勝利した者はやがて、己も罪人となったことを知った。


「アクラム…」


 あの日以来唇に乗せることの無かったその名を、あかねは呟いた。








 完全な悪、では無かったと思う。
 護るべきものが違っただけ、立場が違っただけだった。
 滅ぼさなければ、滅ぼされてしまう。そういった力の応酬。
 その中で彼はただ、徒花だった。
 一族の特徴を顕著に表した姿と、強大な力。正統な統率者の血統。
 彼が現れなければ、「鬼」は静かに滅亡の道を歩んでいったかもしれない。
 だが神は降臨してしまったのだ。滅びつつある一族の前に。

 苦しみの中にある人々がその存在に救いを求めるのを、求められた者が己の持つ力でそれらを導こうとするのを、誰に責めることが出来るだろうか。
 呪われた京の人間が、守護神の力を宿す「神子」に、己が生きる世界の全てを担わせたように。
 その「神子」が、異世界の人間でありながら、担わされたその責を自ら受け入れたように。


――戦いたくなんて、なかったんだよ


 絶対の正義など存在しない中で、ただ自分が選んだ道を進むしかなくて。
 どちらかの道の果ては滅びに繋がるものと分かっていたけれど、世界の大きな流れに逆らえなかった。
 そしてその果てに待ち受けるものに足を踏み入れることになったのは、彼の方だった。

 惹かれていたから、それだけじゃない。
 彼と対極にありながら同じものであった自分だからこそ、この争いの愚かさを知っていた。だから尚更、止めたかった。
 それでも自分は彼を滅ぼしてしまった。
 愚かさの頂点に立ったのは、結局、自分だったのだと思い知らされた。

 彼と、彼に最後まで従っていた一族の女は、共に忽然と姿を消していた。それが何故なのか、何処へ行ったのか…あかねに知る由も無い。
 ただその日から、あかねは罪を負った。
 彼がこの戦いに勝利し、京を支配していたなら負ったであろう罪と、同じものを。












――あかね、どうしてなんだよ

 赤毛の少年が、困惑とも怒りとも悲しみともつかない色を湛えた瞳であかねに呟いたのは、鬼との戦いに勝利したことを祝う宴の終わった後だった。

――どうして、何でおんなじ土の上にあるのに、あの壁の中と外で世界が違うんだ?

 帝の主催したその宴は、当世の英雄としての神子と八葉の披露目も兼ねたもので、帝の威光の下にやんごとなき身分のものが招かれ、呪われた時代の終焉を華やかに祝った。
 それは沈鬱に呑まれ始めていた人々の心理を昂揚させ、あるいは京に神の加護が下ったことを知らしめることによって、この封建都市の未来にわたる磐石の礎にせんとする目的も確かに隠れてはいたのだけれど。

 盛大な宴の中で、最初は目にするもの口にするもの全てに素直に驚きと感動を示していたその少年が、徐々に表情を曇らせ、しまいには眉根を寄せ俯き、沈黙してしまう。
 あかねはその変化に気付いたけれど、どうしたの、と問うことが出来なかったのは、彼が唇を噛み締めているのが、ここでは言ってはいけない言葉をこぼさない為だということを感じ取ったからだ。


――船が浮かんでた大きな池、あったろ。あれ見てたら、思い出したんだ

 宴が終わり、その帰り道で、少年は閉ざしていた口を開く。

――あの池に引かれてる川の水…その川でな、こないだオレの知ってるガキが、死んだんだ

 爪を噛んで、苦々しい表情で。

――羅城門のやつらと同じ、やっぱり親に死なれたガキで、あいつは川っぺりに住んでた。川に、頭突っ込んで…死んでた。ちょっと要領の悪いやつで、食いもんにありつけないことが多かったんだ。オレはそれ知ってたから、できるだけ何とかしようと思ってたんだけど、最近こんなだったろ…あいつのことまで気が回んないうちに、死んじまったんだ…
――そのこと思い出したら、何で、って思ったんだよ。あの屋敷の中の宴、まるで極楽浄土みたいだっただろ。でもここは地上なのに、同じ川の水の流れるところでガキが飢え死にするほど惨めな生き方を…ガキだけじゃない、みんながしてるのに、何で…

 それ以上は彼は何も語らなかった。
 あかねも何も言わず、彼の背に手を乗せただけだった。


 彼はその後、京人の八葉の中でただ一人、神子ともかつての仲間とも一切の関わりを絶った。




 あの宴の、「誉れ高き龍神の神子が鎮座ましますための座」に着いて、御簾越しに宴を眺めていたあかねも、その少年と同じような気持ちを抱いていた。  そして己の未来を決めた。
――償いを。
 道を別ったもう一人の自分に。



 鬼という存在を作ったのも、富める者と貧する者の落差も、この京という社会の構造とそれを形成する人々の意識の歪みだ。
 それを根本的に正さなければ、これからいくらでも「鬼」と呼ばれる存在は現れ、そして消えてゆくだろう。
 数え切れないほどの貧しき人々が、変わらず飢餓や病で無残に死んでゆき、たとえ死に至らなくとも荒廃した世の中で生き続けなければならない。
 鬼と呼ばれたものを駆逐し、それで解決としてそのまま自分の世界に帰ってしまうこともできた。だがそれは、背負う罪が許さなかった。


 京に残ったあかねは努力した。神子の立場を利用した啓蒙活動とでも言えるだろうか。
 帝や関わりを持った貴族に、富の偏在とその弊害を訴え、改善を求めた。
 市井に出れば御祓いをして土地を清め、直接的な効果は知れたものではないが民の気の休まるならと、時には祈祷の真似事までした。
 また、京に残る鬼を迫害しないように、差別がいかに無為で残酷なものであるかを説いた。
 平穏な現代で何不自由なく生きてきた十六の少女の考え付く限り、ではあったが、努力したのだ。



 あかねの一年目の失望は、鬼の迫害が一層強まったことだった。
 …龍神の神子様が、悪さをしていた鬼をやっつけてくださったんだよ…
 急激に伝播したその噂は、京やその周辺で身を小さくして慎ましやかに生きてきた一族の血縁の者にまで、累を及ばせた。まるでその噂が免罪符にでもなったかのように、害の無い、ただ外見が京人と異なるというそれだけの者たちが、あぶり出されるかのようにこれまで以上の迫害の渦に投げ込まれていったのだ。
 民人にとって鬼を追い払うことはもはや、神の権威に裏打ちされた揺るぎない「善」だった。

――神子様が鬼の親玉を退治してくださったと聞いたから、わしらも神子様のおために、できるだけのことをしようと思ったんじゃ

 迫害で鬼の親子が殺されたという集落に行ったあかねは民のその言葉を聞き、気を失って丸一日意識を取り戻さなかった。


 二年目の失望は、人々の生活がたいして変わらなかったことだった。
 鬼騒動後も、特権階級は変わらず富の搾取と享受を続けた。彼らにとってはそれは当然の権利であり、鬼との戦いの影響で疲弊した下層階級を、僅かの間も思いやることは無かった。
 確かに町中に穢れがばら撒かれていたり、故意の異常気象が続いていた頃よりはましになったかもしれないが、鬼と争う前から庶民は貧しかった。どうあっても彼らのところに富が留まらないような世の中の仕組みになっていたのだから。
 神子が鬼を退治したから、これできっと生活が良くなる――という期待が裏切られつつあるのを、二年も経てばさすがに人々は気付いてくる。希望が薄れ苛立ちが再びつのり出す。その先が諦めとなるか憤りになるかは民次第であったが。
 憤りは渦巻き、溢れ出るきっかけを探す。貧しいゆえに、捌け口が必要なのだ。
 あかねもその怒涛に巻き込まれたことがある。

――あんた、お偉い神子様だろう!なんでアタシたちを助けてくれないのさ!
――鬼なんかいなくなっても、何も変わらんじゃないか。そんなら訳の分からん神子様より、わしらにお恵みをくださったこの間のお貴族様のほうが、よっぽどありがたいわい

 月日が経つにつれて、そういった声も聞こえるようになる。そのうえ訪問先で問題が起こることも多くなり、身の安全も保障されなくなった。それに伴って、あかねも市井に立つことを殆ど諦めなければならなかった。
 神子を救いとしている人々も確かに残っていただけに、あかねは深く心を残した。


 三年目の失望は、特権階級の意識改革など無理だと気付いたことだ。
 もちろん、その改革には長い時間がかかるであろうことは覚悟していた。「人間」は早々変わらないし、「人間の集団」は、もっと変化を受け入れにくい。
 だが、かつて八葉の心の交流の過程を見ていたあかねは、多少なりとも人の心の変化というものに希望は持っていたのだ。
 その希望が急速に打ち砕かれていくのを感じながらも、あかねは言葉を投げ続けた。大抵の者はその場ではあかねの言葉に賛同を示し「神子様の慧眼」を誉めそやしたが、実際には何もしなかった。する気は初めから無かった。それが彼らの生き方だった。
 しかし同じことを繰り返し訴えるあかねに対し、彼らの反応は次第に変わってゆく。ある者には馬鹿にされ、ある者には疎ましがられ…そんな中で、一人の貴族の発言が、あかねの希望を遂に握り潰した。

――神子様は随分と下々の者をお気にかけていらっしゃるようですが、もともとあれらは禽獣と同じ、頭を使うことなど出来ぬ愚かな輩なのですよ。そういった者どもを相応しくあるように取り計らってやるのもまた、まつりごとを行う我らの役目というものでございまして…

 その言葉は

――京人はみな愚民よ。愚かなる者たちは、力のある正しき者によって支配されなくてはならぬのだ

 かつて京に差したあの影と、何も変わらなかった。





 あかねに出来る償いは、そこで終わりを迎えた。
 あらゆる壁が、あまりに高すぎて厚すぎて…非力な自分ではどうにもならなくて。
 たった三年で諦めるの、と自分を奮い立たせようとしても、もう立ち上がれなかった。
 鬼一族のこともそうだ。
 これほど激しい排斥の中にあっては、今更あかねが何を言ったところで通じはしない。おそらく、鬼の血を引く者は、十年としないうちに絶えるのではあるまいか。
 一族を再び繁栄させようとしたアクラムが、自分の敗北でその一族を根絶に導いたと知ったら、一体何を思うことだろう。
 それを自分の身に置き換えて考えるたびに、あかねは生死さえ知れぬアクラムが、そのような結末を見ないことをただ、願っていた。


 そして。

――このまま世の中が変わらなければ、「鬼」を失った後、人々は一体何を、自分の苦しみの「原因」にするのだろうか――

 ぼんやりとそんなことを思ったとき、あかねは自分の中に新しい何かが生まれたことを感じた。









 はあ、と涙に乱れた息をつく。
 苦しい呼吸が、白く形を変え自分の周りにまとわりつく。
 地の底から這い上がってくるような寒さ。
 刺すようなその冷気さえいとおしいと思えるのは、今日が特別な日だからだ。


――なんか、バカみたいだよね…。好きな人の誕生日ってだけで、早くから目が覚めちゃうなんて。お祝いするわけでもないのにさ…


 考えてみれば、あかねはアクラムの年齢も知らない。誕生日だけは、いつかアクラムと交わしたくだらない会話の中で知った。
 確かあの時はアクラムがあかねを子供扱いするようなことを言ってきたので、思わず、子供って言っても私は再来月の…日で十七歳になるんだから!とか言い返してしまったのだ。
 この世界では、生まれた日というのは呪術的に重要だそうで、アクラムは神子が自らそのようなことを敵に明かすとは、まさしく子供の所業であるな、と笑っていた。
 言葉に詰まったあかねは、教えたくて教えたんじゃない、フェアじゃないからアクラムの誕生日も私に教えなさいよ!と理論を飛び越えてアクラムに詰め寄った。
 アクラムはそれを聞いて更に笑って、それで私に呪詛でも掛けるつもりか?まあ、どうせ効かぬであろうがな…と、ひとつの日付を口にした。


 それが、今日。


 …彼は笑うだろうか。
 嘘か本当かも分からない「誕生日」を、彼との唯一の繋がりに感じているなどと。

 京に残ってから、一人で感傷に耽ることを自分に許す日など、他に無かった。
 毎日が、二度と鬼というものが生まれたり滅ぼされたりしない社会を作る、という償いを勤め上げるための日だった。
 それをずっと続けていくのだと思っていた。
 しかし、己の限界を知ってから、あかねの償いは意味を変えた。
 今はただ、待っていた。


 審判の日を。







 涙を拭い、深く息を吐き、空を見上げる。
 そこにはまるで空を爪で引っかいた程度でしかないような、心もとない月が浮かんでいた。
 この月がやがて満ち、そして欠け、姿を消し、また現れる。
 それを幾度繰り返したところに、その日はやってくるだろうか。



 …繰り返すのは、月だけではない。



 異端を災いとし、排斥することがこの京の宿命であるならば。

 次の「鬼」は、自分だ―――




 あかねは確かに、京の貴族に、そして民人たちに、その志向性が既に芽生え始めていることを感じている。
 貴族は自らの立場を守るため、異端を定め迫害する。
 民人は貧しさゆえの苦しみから心を逸らすため、その迫害に追従する。
 そんな繰り返しの中に現れてきた特異な存在。
 特権を放棄することを求めてくる、煩わしい神子。
 自分たちの助けにならない、役に立たない神子が。






――ねえ、私、一体どうなると思う?


 あかねが心で呼びかけるのは、決して返事を返すことがない者。
 おそらくは、今のあかねが誰よりも愛しく思い、そして誰よりもあかねを憎んでいるであろう者。


――何してもあなたに赦してもらえないのは分かってるから、私はどっちでもいいやって思ったんだよ。いろいろ疲れちゃったし…


 だんだん、足の感覚が無くなってきた。動いたら転ぶかもしれない。


――みんなはね、私があなたを待ってるんだと思ってるみたい。でも違うんだよね。あなたが来てくれるはずないんだもん。そんな期待してないよ。私も滅ぼされたら、あなたが消えた理由が分かるのかな、とは考えたことあるけどさ


 寒い。
 月も身を縮めているから、あんなに細いのだろうか。


――あなたは龍神の神子は自分のものだって言ってたけど、本当は神子って、誰のためにあったんだろう?何をすれば一番良かったのかな。誰かを救うための力なのかもしれないけど、私は結局誰も救えなかった気がするから…


 滲む涙で月が幾重にも眼の中に舞う。
 辺りは、眩しくて飲み込まれそうな、一面の白。





――本当はね、私は、あなたを救いたかったんだよ…





 いっそ飲み込まれてしまいたい。
 この雪の白でもいい。この夜の闇でもいい。かたちを無くして自分の何もかも消えて――


 終わりになれば、いい。


 今日は贖罪を。
 明日には断罪をと。
 そうやって生き続ける自分と、裁かれても決して赦されない、この罪が。



「ごめんなさい……」


 誰に対して謝っているのか、自分でももう、わからない。
 自分が滅ぼしたあの男か。
 償いの為に遠ざけてしまった以前の仲間たちか。
 救いきれなかった京の人間たちか。
 生きながら地獄を見ることになった鬼の血を引く者たちか。



――あなたとの戦いは仕方の無いものだった。
 でも、私がもっと強い心を持ってれば良かったのに。
 私がもっと頭のいい人間なら、人だって動かせたかもしれないのに。
 私がもっと「大人」だったら、こんな結果にはならなかったかもしれないのに…

















「―――何を詫びておる?」






 …聞くことの無い筈の声。
 涙に伏せていた顔を上げれば、闇の中に揺れる薄明かり。


――幻に、決まってる


 こんな情景を何度も夢に見た。
 期待していないと思いながらも、心の底でどれほど待ち望んでいたかわからない人。ようやく出逢えたその人に駆け寄り抱き締めたのに、夢が破れればそこには横たわる自分ただ一人。
 そのたびにあかねは、戻ってきた現の世界で、叶わぬ夢に枕を濡らしていたのだから。


――それともあの人の幽霊?


 体重が無いかのように、雪の上に立っているその姿。
 やがてふわ、と「彼」が歩みを進める。
 その道のりには、やはり足跡さえ残らない。


――でも違う…いつもの夢なら、彼は近付いてきてくれない


「怨霊が現れたとでも思っているのか?」


――息も、白い


「だがこのような刻限に雪遊びなど、鬼に出逢って攫われても致し方ないというもの」


――鬼…そうだ、彼なら地に足を着けずに歩けたって、おかしくない




 狭まる距離。
 歩みが止まる。


 手が、差し伸べられる。




「…迎えに来た。私の神子」
















――――生きてた













「っ…クラム…!」

 その手に取り付こうとする意志とは裏腹に、凍りついた足は動かず。
 雪の中に倒れかかる身体が、宙に浮いた。

 一瞬、世界が回転する。



「…愚か者が。冷え切っておるではないか。凍え死ぬつもりか」

 体温。支える両の腕。
 すぐそばにアクラムの顔。
 降ってくる、冷たいようで暖かい、声。



――生きてた
――来てくれた
――私の神子、って、言ってくれた…

 感情が頭の中で飽和して言葉を紡げない。
 ただあかねは自分を抱きかかえるアクラムに縋りついて泣く。
 彼もまた何も言わず、あかねを抱く腕の力を強めた。






「…髪が伸びたな…」

 あかねの涙が落ち着いた頃、肩を覆うまでに長くなったあかねの髪を見下ろしながら、アクラムはぽつりとそう呟く。

「…だって、もう三年も経ってるんだもん」
「…三年?」
「そうだよ。…アクラムはあんまり変わらないね…」


 そう言ってから、考え直す。


――違う、変わってる


 着物が違うというだけではない。眼差しや、話し方、声の印象…雰囲気。
 何かが少しずつ違っており、それは二人が出会わなかった間に、あかねだけでなくアクラムにもまた、自己を揺り動かす何かがあったのだということを感じさせた。


――でもいいよ。アクラムがアクラムなら…


「…お前も変わらぬ。日も昇らぬうちからこのような所で雪に埋もれているなど、相変わらず私の予測もつかぬような行動を取る」
「だってそれは…」

 言いかけてはっとした。

「あ、お誕生日おめでとう…アクラム」
「何だと?」
「前、自分で言ったじゃない。…やっぱり、嘘だった…?」
「…ああ、成る程な」

 ようやく彼は思い出したようだった。

「……嘘つき」
「嘘だなどと誰が言うたか」
「じゃあ本当に今日なの?」
「さて…どうかな」
「何よそれぇ…」

 こんな意味の無い会話ができることさえ、こうまでも幸福に思う。
 もたれるようにアクラムの肩の辺りに頭を乗せると落葉の香りがした。
 香の名が判るのも、この三年で身についた教養であることが頭を掠め、それにつれて今日までこの世界で過ごした日々の思いが脳裏に蘇った。



「…嘘かもしれないって思ったけど、私は信じてたかったの。
これしか私、アクラムの特別なこと知らなくて…これしか残ってなくて…だからね…今日があなたの生まれた日なら…」

 衣を握り締める手に、力がこもる。

「私はこの日に消えてしまいたい、って…」


 償いすら成し遂げられない自分。
 消滅の選択が逃げ道であることはわかっていたけれど。


「本当は待っていようと思ったの…誰かが私のこと、「鬼」として滅ぼしてくれること。
私がアクラムのことをそうしたみたいに…」


 己が滅ぼした男が受けたのと同じ裁きが、自分の元に下ることを。


「…何故?」
「ん…アクラムと戦うのは必要なことだったかもしれないけど、全て正しいことじゃなかったから…。
それに、私がもっとよくできた人間だったら…苦しむ人がもっと減ってたかもしれないし、京も変わってたかもしれない、って…」


――でも、いつまで待ったらいいのか分からなくて。
 そんなときに今日が来て、不思議ととてもあなたを近く感じて。
 もしも今日、私も消えることができたなら、あの日消えたあなたのところへ、行けるような気がした…


「そなたは神ではない。人だ。完全になど為りようが無い。そしてそなたを選んだのは神であるものであろう。
その導きの罪や咎を、何故そなたが受ける必要がある」


 迷い無く断じる言葉。
 あかねが少し驚いて顔を上げると、アクラムの瞳とぶつかった。
 引き込まれそうなほど美しいその瞳の色に呆然と見惚れてしまったが、すぐに我に返り、瞬時に血が昇ってしまった顔を背ける。

「…なんか、アクラムがそんなこと言うの、変な感じ…」
「そうか」
「うん…だって前はアクラムの方が、私は神だー!とか言いそうな感じだったし…」
「……………やはり変わっておらぬな。減らず口までそのままとは」

 何かアクラムと話してると強気になっちゃうんだもん、と囁き、あかねは身体を震わせくすくすと笑いながら彼の襟元に顔を埋めた。
 アクラムはあかねの髪に口元を寄せ、塞がった両手の代わりにしばらくの間その感触と香りを確かめていたが、やがてあかねの小刻みな身体の揺れがまた変化したことに気付く。



「………ごめんね、アクラム…ごめんなさい…」

 伝えたかった言葉。
 雪のように冷たく心に積もって、重くて苦しくて耐えきれなかった思い。

「…もう、よい…」

 聞くことは無いと思っていた言葉。
 嗚咽を塞いだ彼の唇は温かく、心の中の雪を溶かしていくようだった。




「神子…そなたを連れてゆく。我がもとで生きよ。
 滅びも絶望も、そなたには似合わぬ…」




――赦し。それ以上の救済。
 償いよりも報いよりも近く、この温もりの中に。




 雪融け水のように、涙が零れて止まらない。
 あかねはアクラムの首元に腕を回し、縋る力を強めることで彼に応えた。












 アクラムはあかねの無言の返答にほんの僅か、口元を緩ませたようだった。
 何気なく見えたその小さな仕草があかねには嬉しく、衣の袖で泣きはらした目を押えると、彼の体に身を預けて瞼を閉じる。
 そのあかねをしっかりと抱き寄せて踵を返そうとしたとき、アクラムの動きがふと止まった。
 あかねは顔を上げ、アクラムの顔を見つめると、その視線の先にあるものを追う。



「…見よ」



 それは遠い先…これから二人で行く路の果てにあるもののように。











「――――夜明けだ」














 天と地の裂け目、はるか山並みの稜線を描く細い光。
 月に代わり、いずれこの地を照らす光。











「…連れていって…」

 迎えるのは、滅びを待つ夜を断ち切る朝。


「ああ…」

 めぐり逢う、過去を払う暁の光。





 繰り返す滅亡と誕生は宵闇と黎明の如く。











 己の総てが終わり、互いだけのものに生まれかわる。
 この新生の日に。































 …やがて。
 余すところなく陽光に彩られた、白銀の庭の中。



 雪上で途絶えた足跡だけが、少女の想いを知る者に、真実を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


会員番号4番のユキエ様から戴きました『到来』です。
ちょいと長めなんですが、冒頭から話に引き込まれてもう一気に読んでしまいました。
重い話だけど、でも嫌な重さじゃない、静かに心に訴えかけてくるような
素直に良い話だと思いました。

それにしても、あかねちゃんが今にも儚くなってしまいそうな雰囲気で・・・
「悲恋なの?ねえこれって悲恋展開??」と途中まで非常にドキドキしてました。
なので「…迎えに来た。私の神子」の所では思わず涙ぐんでしまいました。
ユキエさん、盛り上げるのうま過ぎです。それに再会後の2人の会話もいいですよね。
「何かアクラムと話してると強気になっちゃうんだもん」とくすくす笑う
あかねちゃんが可愛いですvv

この話を読んでいてイラストは勿論そうですが、創作もセンスだな〜とつくづく思いました。
言語センス。もぉ「こんな表現、私じゃ絶対出てこないっ」と何度羨望と嫉妬の溜め息を
ついたことか・・・。(普通、同人創作ではこんなこと感じること滅多に無いんですけどね)
なかでも
己の総てが終わり、互いだけのものに生まれかわる。
の一文が凄く好きです。

ユキエさん、力作をどうもありがとうございましたvv