或る休日
「そんなこと、女官にでもやらせりゃいいだろう?」

 鏡台の前で髪を梳いていた千尋は、呆れたような男の声に、脇に置かれた寝台の方へと視線を向けた。
 長い脚を組み、寝台にしどけなく寝そべっていた夫の不可解だと言わんばかりの表情を認め、千尋は手にしていた櫛を置くと、両手を組み合わせ、少し困ったような笑みを浮かべた。

「う。アシュヴィンもやっぱり姫らしくないと思う? 豊葦原でも『姫は何でも御自分でなさりすぎです』ってよく驚かれたんだけど…。
でもね、向こうの世界で暮らしていた間に、すっかりそういう癖がついてしまって…」

「ああ、橿原宮陥落後、お前は従者と共にしばらく異界へ逃れていたのだったな…」

「うん、あっちではずっと二ノ姫だった記憶もなくて普通の女の子として過ごしていたから、何でも自分でやるのが当たり前だと思ってたし。
…もっとずっと小さい頃は風早が毎日私の髪を梳いたり、色々面倒をみてくれてたんだけどね」

「…へぇ…、あの男がねぇ…」

「そうなのよ。風早ってね、ぼーっとしてるように見えて、意外と手先が器用で、料理なんかも上手で、それから…」

「…………」

「…ということがあって。で、その時風早がね……って、アシュヴィン?」

 調子に乗ってペラペラと風早との思い出話のあれやこれやを語っていた千尋は、ようやく部屋を満たす微妙な空気に気がついた。
 千尋はいつのまにやら黙り込んでしまっていた夫の顔を見ながら、首を傾げた。

(? 私、別に何も変なこと言ってない…よね…?)

 寝そべったまま頭の後ろで手を組み、天井を眺めて、何事か考え込んでいる夫に、些か不安を覚える。
 もしかして、気づかぬうちに、何か彼の機嫌を損ねてしまったのだろうか?

「あの…ア」

 千尋が再び声をかけようとしたその時、突然彼ががばりと身を起こした。

「よし! 決めた。今日は俺がお前の髪を梳いてやる」

 思いがけない夫の言葉に千尋の瞳が大きくなる。

「は? ええっ、何勝手に決めてるのよ!? だいたい何で急にそんなこと言い出すわけ!??」

「…何でもいいだろ」

「やだ!」

「何でだよ?」

 思いっきり拒否した千尋に、不快そうにアシュヴィンの眉が寄る。

「だってアシュヴィンって、いつもシャニの頭ぐしゃぐしゃに掻き回して怒られてるじゃない?」

「…あれは撫でてるだけだ」

「あんな感じでとかす時も、あなたって力任せにガシガシやりそうなんだもん」

「あのな……」

 いかにも心外だと言わんばかりに、アシュヴィンは深々と溜め息をついた。

「俺が今まで、お前の髪一筋でも傷つけたことがあったか?」

「初めて会った時、黒麒麟けしかけたじゃない」

「お前だって、出雲の戦の時、俺に痛撃くらわせただろう」

「それはアシュヴィンが黒雷使ってきたからでしょ」

「それを言うならお前だって…」

 いや、とアシュヴィンはふっと息を吐き出すと、僅かに肩を落とした。

「…戦の時の話はやめようぜ。お互い不毛だ」

「そ、そうだね…」

 勢いでつい言い返していたものの、このまま喧嘩まで発展させる気はなかった千尋も、すぐさま同意した。

「では、言い直そう。戦場(いくさば)以外で、俺が今まで、お前の髪一筋でも傷つけたことがあったか?」

「それは………ない、けど…」

 確かにないといえばないのだが、どうも色々と不安が残る。
 不承不承頷く千尋に、アシュヴィンはふっと笑みを浮かべた。

「ならば、これでもう何も問題はあるまい。ほら、とっととその櫛寄越せよ」

「もう…、相変わらず強引なんだから…」

 頬を膨らませて、渋々アシュヴィンの手に櫛を渡すと、千尋は念を押すように口を開いた。

「いい? ちゃんと毛先から少しずつ順番に、だよ?」

 軽く彼を睨みながら言うと、アシュヴィンが笑う。

「ふっ、何事も皇后陛下の仰せのままに――」

「もう、自分だって皇(ラージャ)じゃない」

 ふざけて、限りなく優雅に皇后に対する正式の礼をしてみせるアシュヴィンに、千尋はくすくすと笑い出した。










 優しい手がそっと髪に触れ、丁寧にくしけずっていく。
 心地良いその感触に千尋はうっとりと目を閉じた。

(意外だ…。この人にこんな繊細な一面があったなんて…)

「綺麗だな…」

 頭上から吐息のように零された呟きに、ハッと目を開くと、千尋は鏡越しに彼の端整な顔を見つめた。

「初めて会った時も、月光を浴びて煌めくこの黄金(こがね)の髪に目を奪われたものだが、やはりお前の髪は明るい陽光の下が一番似合う」

そう言って、窓から差し込む朝日に輝く彼女の髪を、瞳を細めて見下ろすアシュヴィンは、とても優しい目をしていた。


『馬鹿な…。俺の髪とお前のものではわけが違う』


 不意に脳裏にあの時の言葉が蘇る。
 以前戦場でやむを得ず自らの手で長い髪を断たねばならなくなった時、惜しんでくれたのは風早とこの人だけだった。

(あの時は、風早はともかく、何でこの人があんなに驚いていたのか不思議だったのだけれど…)

 千尋はふわりと微笑んだ。――今ならばわかる気がした。
 幼い頃から異形と言われ、宮中で畏怖されてきたこの金の髪を千尋が嫌いにならずにすんだのは、彼女が小さい頃から忠実に仕え、繰り返し励まして、この髪を慈しんでくれた風早がいたから。
 そして今、この髪もまた自分の一部なのだと愛しく大切に思えるのは、きっと、こんなにも優しい手つきで、この髪を愛おしんでくれるアシュヴィンがいるから――。
 心にじんわりとあたたかなものが広がっていく気がした。

「アシュヴィン」

 千尋は優しく夫の名を呼んだ。

「うん?」

「――ありがとね」

「なんだ、突然?」

 にっこりと微笑みかけると、アシュヴィンは面食らったように、ぱちぱちと赤い瞳を瞬かせた。

「髪なら、まだ終わってないぞ」

「そうじゃなくて・・・」

「…?」

「だから…」

 今のこの気持ちをどう言葉にすればいいのだろう?
 改めて説明しようとすると何だか急に気恥ずかしくなってくる。

「や、やっぱり何でもないよ」

 迷った挙句結局そう言うと、アシュヴィンは、変な奴だな、とクスリと笑う。

「まあ、いい。――ほら、終わったぜ。髪飾りは、今日はそれでいいのか?」

「あ、うん」

 良質の宝玉が数多く産出される常世の国らしく、宝玉がふんだんに散りばめられた常世製の銀の髪飾りを取ると、千尋は慌ててアシュヴィンにそれを手渡した。










「――千尋」

 ためつすがめつ鏡を眺めて、仕上がりをチェックして満足していた千尋は、不意にかけられた声に機嫌良く背後を振り返った。

「なぁに、アシュヴ…っ!」

 チュッと音を立ててなされた不意打ちのキスに、たちまち千尋の顔が赤く染まる。
 今更照れるようなことじゃないだろう? とアシュヴィンには今までにも何度も言われていたし、自分でもそれはそのとおりだと思っているのに、しかし頭でわかっていても、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。

「――い、いきなり何するのよっ!?」

「何って」

 真っ赤になって狼狽える千尋を面白そうに眺めていたアシュヴィンは、彼女の問いにニヤリと唇を歪めた。
 すっと己が唇に指先を当てると、ちらりと艶を含んだ眼差しでこちらを流し見る。

「皇自らお前の髪梳き役を務めたんだぜ。褒美くらいもらってもいいだろう?」




update : 08.7.25


アシュの流し目が好きですv
千尋ちゃんの照れ顔立ち絵はツンデレにしか見えません(笑)

シャニの頭ぐしゃぐしゃは、実際にそういうシーンがあるわけではないのですが、 漫画でシャニ抱っこして、「もうっ、僕、小さい子供じゃないんだよっ」ってシャニにプンスカ怒られても 豪快に笑ってたあのアシュならやりそうかなーって…(笑)もし、イメージ違う方いたらすみません…。





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